61.笑う秘書官と空席になった椅子
ミレーユ伯爵邸の空気が変わった。
───否。変えられてしまった、というべきだった。
数日前までは、少なくとも「伯爵夫人」という法的な立場と、この屋敷の女主人としての最低限の体裁だけは、シャルロッテのものであった。いくら実権をジルベールに握られていようとも、使用人たちは怯えながらも彼女に頭を垂れ、彼女が命じれば形式上はそれに従っていた。
だが今は違う。彼女が回廊を歩けば、背後で露骨な囁き声がピタリと止まる。すれ違う侍女たちは視線を伏せるふりをしながらも、その睫毛の隙間から、まるで落ちぶれた骨董品でも眺めるような、値踏みするような目を向けてくるのだった。そして、その原因はあまりにも明白だった。
「───本日より、こちらで執務を行わせていただきますね、旦那様」
甘く、耳を撫でるような艶のある女の声。伯爵邸二階の特等席。本来ならば歴代のミレーユ伯爵夫人が、限られた高貴な賓客を迎え入れるための専用応接間として用いられていた、最も格式高い部屋。
そこにある、猫脚の美しい椅子へ当然のように腰を下ろした女を見て、扉の外に佇んでいたシャルロッテは、ドレスの布地越しに指先を強く、白くなるまで握り締めた。
───マリアンヌ。
ジルベールが王都の商会から連れてきた優秀な秘書官であり、同時に、彼の公認の愛人。年齢は二十五ほどだろう。豊かな茶髪を艶やかに結い上げ、切れ長の瞳には隠そうともしない計算高さが浮かんでいる。
彼女が纏う淡い葡萄酒色のシルクドレスは、一見すれば上品な仕立てに見えるが、シャルロッテのような本物の貴族から見れば、胸元の開き方や腰のラインの強調の仕方に、男の視線を釘付けにするための明確な“意図”と“卑しさ”が滲み出ていた。
男に見せるための装い。そして、その装いの対象である男は今、彼女のすぐ隣で、満足そうに顎を引いて頷いている。
「好きに使え。どうせ中身の入っていない、空いていた部屋だ。お前のように数字の動かせる人間が座ってこそ、部屋も価値を持つ」
「まぁ。ありがとうございます、旦那様」
ころころと鈴を転がすように笑うマリアンヌは、まるで自分がこのミレーユ伯爵邸の真の女主人であるかのように振る舞っていた。
もし、以前の傲慢で愚かだった自分なら、今すぐに扉を蹴破り、狂ったように金切り声を上げて怒鳴り散らしていただろう。物を投げつけ、「私を誰だと思っているの!?」と涙を流して喚いていたはずだ。
けれど、今のシャルロッテは、喉元まで出かかった罵声を冷徹に飲み込んだ。それでは、負けるのだ。激情に任せて醜態を晒せば、この冷徹な成金夫は心底面倒そうな顔をして『また癇癪か。これだから中身のない貴族の女は』と切り捨てるに決まっている。シャルロッテは静かに息を潜め、その光景を己の青い瞳に焼き付けた。
その日の夕食は、地獄のような静寂と、不快極まりない饒舌に満ちていた。かつては夫婦二人だけで向かい合っていたはずの長い食卓には今、当然のように三人分の食器が並べられている。シャルロッテの席は上座から最も遠くへ追いやられ、まるで彼女だけがこの空間の異物であるかのように孤立していた。
「北側の流通路の件ですが、やはりミレーユ領の古い関所を単独で運用するのは厳しいかと存じますわ、旦那様。あそこは利権が複雑に絡み合っていますもの。それよりも、ヴァレリオ公爵領の交易路を一部借り受ける形にするのが、最も現実的で利益が上がりますわ」
「……チッ。やはりあの氷公爵が邪魔を組み込んできているか」
ジルベールは不機嫌そうに肉を切り分けながら、地を這うような声で舌打ちをした。そのジルベールの肩に、マリアンヌは果物を差し出しながら、くすりと妖艶に笑う。
「ですが、あちらは今、待望の跡継ぎ誕生ということで、領内も王都の邸宅も浮かれておりますもの。むしろこちらにとっては好機ですわ。愛だの情だのという不確かなものにうつつを抜かし、幸福の絶頂にいる人間には、必ず致命的な隙が生まれますもの」
「違いない」
ジルベールは口角を歪め、獰猛な商人の顔で葡萄酒を煽った。
「貴族どもの言う『愛』など、ただの甘えだ。そんなものに目を曇らせている連中から、利益を毟り取るのは容易い。ヴァレリオの防壁も、今なら風穴を開けられるだろう」
二人の傲慢な会話を、シャルロッテは冷めきった瞳で見つめ、スープを口に運んだ。スープからは何の味もしなかった。
(……浅いわね。この成金たちは、何も分かっていない)
胸の奥底で、ドロリとした黒い嘲笑が浮かび上がる。かつて自分がリシェルを「子リス」と侮り、ジュリアンをただの冷徹な男としてしか見なさず、その結果として徹底的に返り討ちに遭ったからこそ、今のシャルロッテには痛いほど理解できる。
ジュリアン・ヴァレリオという怪物は、幸福になればなるほど、その幸福───すなわち最愛の妻と我が子を脅かそうとする外敵に対し、どこまでも容赦なく、残酷に、徹底的な破滅を与える男だ。
噂話と、紙の上の数字でしか「氷の公爵」を知らないこの哀れな商人とその愛人は、かつての自分と全く同じ、致命的な過ちを犯そうとしている。
「あら、奥様。お口に合いませんか?」
マリアンヌが、勝ち誇ったような哀れみの笑みを浮かべて問いかけてきた。その声音には、シャルロッテを精神的に追い詰めようとする明確な悪意が横たわっている。
「そういえば、ご報告が遅れましたわ。北棟の使用人部屋ですが、少々『整理』をいたしましたの。不要な人员があまりにも多く、商会の予算を圧迫しておりましたので。金を食うだけの無能な古参を切り、旦那様への忠誠が厚い、若い実務家に総入れ替えいたしましたわ。……奥様も、これで余計な雑音に惑わされず、少しは身軽になられたでしょう?」
父の代から仕えてくれていた、シャルロッテの味方になり得る古参の使用人たちをすべて叩き出し、彼女の手足を完全に奪ったと、そう宣言して嘲笑っているのだ。
怒りで視界が真っ赤に染まりそうになる。しかし、シャルロッテはゆっくりと、完璧な動作でリネンのナプキンを畳んだ。
「……ええ。お気遣いありがとう、マリアンヌ。実務の分からない私に代わって、そこまで細やかに屋敷を『お掃除』してくださるなんて、本当に有能な秘書官ですこと」
シャルロッテは一切声を荒らげることなく、極上の微笑みを返した。その青い瞳の奥に宿る冷徹な光に、一瞬だけマリアンヌが気圧されたように身を引く。
「ごちそうさま。お先に失礼しますわ、旦那様」
「ああ、好きにしろ。お前はそこに座っているだけで息が詰まる」
ジルベールはシャルロッテを見ようともせず、吐き捨てた。シャルロッテは静かに席を立った。背筋だけは決して崩さず、ミレーユ伯爵令嬢としての最後の矜持だけを背骨の代わりに役立てて、食堂を後にした。
その夜。深夜の帳が降りた頃、シャルロッテの寝室の重厚な扉が、遠慮のない音を立てて開いた。入ってきたジルベールは、明かりを灯すこともなく、寝台に横たわっていたシャルロッテの体を、言葉もなく手荒に組み伏せた。それは、愛などという高尚な感情とは無縁の行為だった。
手に入れた領土を厳しく検分し、時期が来れば冷酷に種を蒔く農夫のような、事務的で、暴力的なまでの「夜の営み」。シャルロッテは暗闇の中、天井の一点を見つめながら、彼の体から漂う石鹸と、男特有の粗野な汗の匂いにじっと耐えていた。
じわりと広がる肉体的な痛みを麻痺させながら、彼女の脳裏は、先ほどまで彼がマリアンヌの部屋で向けていたであろう、あの寵愛の「熱」を嫌応なしに想像する。壁の向こうからは、いまだにマリアンヌが好む甘ったるい花の残り香が、この部屋まで染み出してきているような錯覚さえ覚えた。
ジルベールにとって、有能な愛人であるマリアンヌは「快楽と実利」を同時に与えてくれる極上のパートナーであり、妻であるシャルロッテは、ただ「ミレーユ伯爵家という看板を維持し、次世代へ血を繋ぐための義務」としての、中身のない肉の器に過ぎない。
自分を強引に抱き締めるこの男の逞しい腕に、シャルロッテが体温を感じることは、ただの一度としてなかった。彼はただ、己の野望のために、ミレーユの血を貪っているだけなのだ。事が終わると、ジルベールは寝台の乱れを気にする様子もなく、さっさと身支度を整え、一言の言葉も残さずに、振り返ることもなく部屋を出て行った。
バタン、と閉まった扉。彼の向かう先が、ここから数歩しか離れていない、あの女の部屋であることは疑いようもなかった。一人残された冷ややかな寝室で、シャルロッテは乱れた更衣を整えることもせず、寝台の上に起き上がった。そして、静まり返った闇の中で、肩をふるわせた。それは笑っているのか、泣いているのか……それはシャルロッテ自身にも分からなかった。
「貴族は金に疎い、ですって? 本当に、何も分かっていないのね……」
シャルロッテは寝台から降り、ふらつく足取りで机へと向かった。引き出しから取り出したのは、昨夜から幾度となく見返している父の古い帳簿とジルベールの置いていった資料。
昼間、マリアンヌが誇らしげに語った「北棟の使用人の整理」。彼女が『不要な無能』として切り捨てた古参の使用人たち。シャルロッテの味方が消えていくことに、胸がひどく痛んだ。
シャルロッテは月光に照らされた帳簿の数字を見つめながら目を閉じた。
(お父様、数字に違和感があるのです。でも私にはそれが何を意味するのかわからない……。……もしこのまま私が母になったら、こんな無力なままでは、この子さえ守れない。お父様……私は、どうすればいいの……)
屈辱的な夜の営みの直後のシャルロッテは、ヴァレリオ公爵家の方へ視線を向ける。
「ジュリアン様とヴァレリオ公爵家を侮る方々と共に、私も断罪してください……」
窓の外では、冷たい夜風だけがシャルロッテの悲痛な心内を聞いていた。




