60.金糸の棘
シャルロッテは、自分が嫌いだった。正確には──“何もできない今の自分”が、耐え難いほど嫌だった。
鏡の前に立つ。今日も完璧だった。一分の隙もなく巻かれた金髪は陽光を弾き、特注の青薔薇色のドレスは彼女の細い腰を強調している。耳元で揺れる真珠の耳飾りは、彼女の肌の白さを残酷なまでに際立たせていた。
誰が見ても、非の打ち所のない、美しい伯爵夫人。けれど、その実態はどうだ。父には会えず、使用人は心の中で自分を嘲笑い、夫は厚顔無恥にも秘書を屋敷へ住まわせた。自分はただ、この豪奢な鳥籠の中で、空虚な微笑を顔に張り付けているだけ。鏡の中の自分は、まるで“名画の中の女”のようだった。
───美しいが、自らの意思で動くことはない。
───美しいが、その手に掴めるものは何ひとつない。
───美しいが、誰の心も動かさず、ただそこに在るだけの置物。
(……惨め。これほど惨めなことが、他にあるかしら)
ぽつりと呟いた瞬間、控えめな、だがどこか事務的なノックが響いた。
「奥様。旦那様がお呼びです」
侍女の声に一瞬だけ目を閉じ、シャルロッテは肺の奥に溜まった淀んだ空気を吐き出すように、深く、深く息を吸い込んだ。
「……すぐ行くわ」
立ち上がると、シルクのスカートの裾が衣擦れの音を立ててわずかに揺れた。その揺れさえ、自分の意思を失った幽霊の足取りのように、どこか頼りなく見えた。
廊下を歩くたび、胸の奥に沈んでいた痛みが、静かに、そして鋭く浮かび上がってくる。一歩ごとに、失われた「ミレーユ伯爵邸」の残滓が彼女を苛んだ。
───かつて父の書斎から漂っていた、古い紙と葉巻の落ち着く香り。
───早世した母のサロンに満ちていた、季節の花々の瑞々しい匂い。
───幼い頃、父の膝の上で微睡みながら聞いた、この国の建国神話。
───母の柔らかな指先の感触が残っていた、あのビロードの椅子。
それらはもう、この屋敷のどこにも存在しない。ジルベールが「経営の合理化」という名のもとに屋敷を“洗浄”した結果、母の遺した繊細な家具は暗い倉庫の奥底に押し込まれ、父の温かな気配が満ちていた書斎は、冷徹な数字を吐き出す商会の資料庫へと姿を変えられた。
廊下に飾られていた歴代当主の肖像画は「時代遅れの遺物」として外され、代わりに無機質な商会の交易ルート地図や、金貨の動きを示す収支表が、これ見よがしに貼られている。
(……ここは、もう私の知る“家”じゃないわ。ここは、あの男の事務所に、私の肉体が寄生させられているだけ)
胸の奥が、氷を飲み込んだようにじわりと冷えた。
ジルベールの執務室は、かつて父フランソワが最も愛した場所だった。だが今はもう、当時の面影すら薄い。重厚な調度品はすべて取り払われ、代わりに効率性だけを追求した大量の書類棚が壁を埋め尽くしている。机の上には領地収支表、デュラン商会の取引記録、冷酷なまでに引き上げられた税率改定案。そこは、一国を導く貴族の部屋ではなく、一銭の損も許さない守銭奴の司令部のようだった。
「入れ」
低い、感情の起伏を殺した声。入室したシャルロッテに対し、ジルベールは手元の書類から目を離さないまま、用件だけを告げた。
「三日後、王都の商会連合との晩餐会がある。お前も同席しろ。ミレーユの血筋がまだ健在であることを、連中に見せつけてやる必要がある」
「承知しましたわ。……置物としての役割を果たせばよろしいのでしょう?」
短いやり取り。夫婦らしい情愛の欠片もない、契約の確認。シャルロッテは室内を、値踏みするように見回した。壁際のハンガーには、見慣れぬ、だが明らかに高価な女性物の夜会服が掛けられ、室内にはマリアンヌの愛用している甘ったるい花の香りが、汚染するように漂っている。
「何か言いたげだな」
ジルベールがようやく視線を上げた。その黒い瞳は、いつもシャルロッテを窒息させる。
「別に。仕事熱心な秘書をお持ちで、妻として羨ましい限りですわ。公私ともに、これほどまでにお支えいただけるとは」
精一杯の棘を込めた言葉。だがジルベールは気分を害した様子もなく、むしろ僅かに口角を上げ、残酷な笑みを浮かべた。
「嫉妬か? お前には不可能な能力を持っている女への」
「まさか。そのような下俗な感情を抱くほど、私達は親密な夫婦ではありませんでしょう? 私はただ、この屋敷の清掃が行き届いていないことを案じているだけですわ」
空気が凍りつく。ジルベールの瞳に、剥き出しの熱が混じる。それは怒りではなく、獲物を追い詰める獣の嗜虐心に似ていた。
「お前はいつまで“ミレーユ伯爵夫人”という幻影に拘り続けるつもりだ。誇りだの格式だの。そんな実体のないものに縋って、お前は一体何を得た? 今、お前の喉を潤しているその水さえ、俺の金で買ったものだというのに」
「……黙って」
「現実を見ろ、シャルロッテ。父親は檻の中でボロ布のように朽ち果て、家名は俺の財布の中に納まっている。お前には、もう誰もいない。俺以外にはな」
「黙ってと言っているでしょう!」
荒れた声が、資料室のような冷たい壁に跳ね返った。
その時、扉が音もなく開き、マリアンヌが入ってきた。栗色の髪を扇情的に揺らし、彼女は当然のような顔をしてジルベールの椅子の背後に回った。そして、挑発するようにその細い指を彼の肩に這わせ、首筋をなぞる。
「失礼します、旦那様。……あら、奥様もいらしたのですね。お取り込み中でしたか?」
マリアンヌの瞳に浮かぶ微かな愉悦。彼女は心底楽しんでいるのだ。目の前の「高貴な正妻」が、いかに無力で、いかに愛されていない形骸化した存在であるかを。
「旦那様、例の北側の取引ルートの件、こちらの修正案をご確認いただけますか?」
「ああ。お前が作ったものなら間違いなかろう」
ジルベールはマリアンヌの手を拒まないどころか、シャルロッテを正面から見据えたまま、その手を自らの肩に重ねた。自分には一度も向けられたことのない、絶対的な信頼。その事実が、シャルロッテの心臓を、毒を塗った針で刺すように屈辱させた。
「……失礼しますわ。お仕事の邪魔をしては悪いですものね」
踵を返し、一刻も早くこの場から逃げ出したかった。閉まる扉の向こうから、マリアンヌの綿菓子のように柔らかく、冷たい声が聞こえた。
「奥様、あまりお気になさらずに。旦那様は、仕事のできる女がお好きなだけですのよ」
その声音には、勝者の余裕と、隠しようのない毒が滲んでいた。
自室へ戻ったシャルロッテは、扇を乱暴に机に投げ出し、深い絶望の吐息をついた。胸が苦しい。悔しい。惨めだ。なのに、涙が出ない。彼女のプライドという名の防壁が、涙を流すことさえ「敗北」として禁じていた。鏡の前に再び立つ。そこには、完璧に整えられた、空っぽの伯爵夫人が映っている。
(……誰のために、私はこの仮面を被り続けているの? お父様のため? それとも、もう死んでしまった自分のため?)
答えは、部屋を満たす静寂の中に消えていった。彼女は縋るように、机の引き出しの奥から、古い帳簿の紙束を取り出した。父フランソワが全盛期に使っていた帳簿。そこに並ぶ、色褪せたインクの数字。震える指で、父の筆跡をなぞる。
(お父様……私は、どうすればいいの……)
胸の奥が、きゅっと痛む。数字の意味は、まだ霞がかかったように読み解けない。だが、父がかつて言っていた言葉が、今の暗闇の中で一筋の光のように脳裏に響いた。
『シャルロッテ、よく聞きなさい。人は美辞麗句で飾ることができる。だが、数字は嘘をつかないんだ。ミレーユを守るためには、この並びの背後にある、目に見えない理を見抜くのだよ』
あの頃の、強くて優しかった父の声。シャルロッテは無我夢中で、父の古い帳簿と、ジルベールが執務室に並べていた最新の収支表の記憶を、頭の中で照らし合わせ始めた。
「……おかしいわ」
ふと、彼女の指が止まった。だが、数字の意味は霞がかったまま、輪郭を結ばない。
(……私には、まだ分からない。お父様のようには読めない)
その事実が、胸の奥をさらに締めつけた。父の帳簿にある伝統的な交易益の推移に対し、ジルベールの商会が示す利益率があまりにも異常なまでに高い箇所がある。ただの「効率化」だけでは説明がつかない、不自然な空白。
(数字は嘘をつかない……なら、この『不自然』の正体は何かしら)
金糸の檻の中で、鳥はまだ鳴くことはできない。だが、その青い瞳には、ただ深い疲労と、行き場を失った痛みだけが沈んでいた。彼女はただ、父の残した数字に縋るように視線を落とすしかなかった。
そこに救いがあるのかどうかさえ、今の彼女には分からないままだった。シャルロッテは、震える手でペンを握り、父の帳簿の余白に、自分なりの数字を書き込み始めた。
夜の帳が降りる中、ミレーユ伯爵邸の孤独な一室で、ふと、胸の奥がひどく冷たく震えた。もうすぐジルベールがやってくる。あの苦痛の時間が……。懐妊し母になれるのかと思う反面。
──もし私が母になったら、この子にだけは、私と同じ孤独を味わわせたくない。
その想いが、痛みのように胸を刺した。守れる自信などどこにもないのに、それでも“守りたい”と願ってしまう自分が、余計に苦しかった。




