59.閉ざされた扉の向こう側
ミレーユ伯爵邸の北棟は、冬になると特に冷える。だが、シャルロッテは知っていた。それが単なる季節の問題ではないことを。真夏であっても、この回廊には肌を刺すようなひんやりとした空気が立ちこめている。それは、この屋敷から生気が失われ、代わりに満ちてしまった重苦しい沈黙のせいだ。
──長く閉ざされ、光の届かない回廊。
──歩くたび、厚い絨毯に無慈悲に吸い込まれていく足音。
──誰も笑わず、誰もが何かに怯えるように声を潜める場所。
そこは、かつて父フランソワ・ミレーユ伯爵が当主として堂々と執務を行っていた聖域でありながら、今では外界から切り離された事実上の牢獄に等しい。
シャルロッテは、肺の奥まで凍てつくような冷気を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと北棟へ歩を進めた。一歩ごとに、胸の奥底に沈殿していた泥のような記憶が、静かに、だが鮮明に浮かび上がってくる。
──どうして、こんなことになったのだろう。
その問いは、ここ数ヶ月、夜ごと繰り返してきた呪文のようなものだった。だが、何度繰り返しても、返ってくるのは冷たい沈黙と、鏡に映る惨めな自分だけだった。
すべてが狂い始めたのは、数ヶ月前のこと。ド・ラ・クロワ公爵家の夜会は、シャルロッテにとって一生消えることのない悪夢の舞台となった。
王都の社交界において、誰もがその一挙手一投足に注目する「氷の公爵」ジュリアン・ヴァレリオと、その妻リシェル。彼らは、まさに絵に描いたような理想の夫婦として、衆目の的となっていた。
ジュリアンがリシェルに向ける眼差しには、かつての冷徹さなど微塵もなく、ただただ深い慈しみと独占的な愛が揺らめていた。その二人の間に流れる甘く、強固な愛の空気。その眩しすぎる光景は、シャルロッテが長年積み上げてきたプライドを、根底から粉々に打ち砕いた。
(どうして……あんな、リスのような小娘が……!)
シャルロッテがミレーユ家の名声と己の美貌、そして持てる策略のすべてを賭けて仕掛けた妨害工作。しかしそれは、彼らの揺るぎない絆の前では、子供の悪あがきのように無意味だった。
それでも、当時のシャルロッテは諦めることができなかった。それはもはや、ジュリアンという男への恋慕ではない。ただひたすらに、自分がリシェルより優れていると証明したい、彼女を屈服させたいという、歪んだ自尊心ゆえの暴走だった。その狂気が、彼女を破滅の淵へと追いやっていった。
夜会から数日後。シャルロッテは、敗北の屈辱に震えながら自室にこもり、憔悴しきった父を呼び出した。
「お父様! あの女が……リシェルが、公爵様の隣で、まるで自分がこの国の女王であるかのように振舞っていましたわ! 許せません、あんな屈辱!」
嫉妬と怒りで真っ赤に染まった顔、狂気を宿した瞳。シャルロッテは父に、さらなる報復のための協力を迫った。しかし、フランソワ・ミレーユは、力なく首を振った。
「シャルロッテ、もう諦めなさい。ヴァレリオ公爵夫妻の仲は、我々がどうこうできる段階をとうに過ぎている。あれは、誰にも引き裂けぬほど強いのだ」
「何を仰るのですか! 私があの女より劣っているとでも仰りたいの!? 私こそが、公爵夫人に相応しいはずなのに!」
彼女は自分の失敗を何ひとつ認めず、あろうことか父にその責任を押しつけ、罵倒した。かつての「ミレーユのバラ」と呼ばれた優雅さは影も形もなく、ただの醜い嫉妬に狂った女の姿。その愚かさが、最愛の父をも絶望させていたことに、当時の彼女は気づかなかった。
そして、運命のあの日。ヴァレリオ公爵家からの使者が、音もなく屋敷を訪れた。差し出された書簡の封蝋には、厳格な獅子と剣の紋章。それを受け取るフランソワの手は、目に見えて震えていた。書簡を開き、その内容を読み下した瞬間、ミレーユ伯爵家の輝かしい未来は音を立てて崩れ落ちた。
ジュリアン・ヴァレリオ公爵自らの筆跡で記された、絶対的な拒絶と氷のような怒り。そこには、シャルロッテがこれまで行ってきた、リシェルに対するあらゆる妨害行為が克明に列挙されていた。
『次に同じことがあれば、ミレーユ家はこの国の貴族社会から永遠に抹殺されるものと思え』
一文一文が、鋭い刃となって父を貫いた。フランソワはその場に崩れ落ち、シャルロッテは書簡を読み終えると、顔から血の気が一気に失せ、膝から崩れ落ちた。
「そんな……私が……負けるはずが……あり得ませんわ……」
その瞬間、彼女が信じていた世界は、砂の城のように脆く崩れ去ったのだ。
それからの日々は、坂道を転げ落ちるようだった。父は日に日に心身を病み、社交界の蝶だったシャルロッテは、誰からも声をかけられない「呪われた女」として孤立した。手入れをされない庭園と同様に、屋敷の維持費さえ事欠くほどに経済状況は悪化し、絶望が家中に染み込んでいった。
そんなどん底のミレーユ家に舞い込んだ、デュラン家からの縁談。爵位を持たない新興成金。王国の流通を牛耳る莫大な富を持ちながら、貴族社会の「門」の前で足止めを食らっている家。かつてのシャルロッテなら、その話を聞いただけで汚らわしいと叫んでいただろう。
「冗談でしょう? 成金商人の息子ですって!? わたくしは由緒正しきミレーユ伯爵令嬢よ! 下賤な血を混ぜるなど、死んでも御免ですわ!」
激しく反発する娘に対し、憔悴しきっていたフランソワは、初めて裂けんばかりの声で怒鳴りつけた。
「いい加減にしろ、シャルロッテ! お前のその浅はかで身勝手な振る舞いが、この家を、私を、ここまで追い詰めたのだ! お前の『誇り』とやらで、この借金が返せるのか!? 民を養えるのか!?」
父の激昂は、シャルロッテの胸を深く、残酷に突き刺した。自分が愛した父を、自分が壊してしまったのだという、逃れようのない事実。
そして、婚約の席に現れたジルベール・デュランは、彼女が夢見ていた「騎士様」や「公爵様」とは、対極に位置する男だった。鋼のような筋肉、日に焼けた浅黒い肌。獲物を仕留める機会を伺う野獣のような黒い眼光。優雅なダンスステップではなく、荒野を駆け抜けるための足取り。
(こんな、言葉の通じないような男と……)
絶望に打ちひしがれながらも、彼女はミレーユの家名を、そして父の命を繋ぐために、その冷たい手を取ったのである。
──そして今。北棟の重厚な大扉の前で、シャルロッテは再び、かつての生活を奪った現実に直面していた。
「通しなさい」
「旦那様より、何人たりともお通しするなと命を受けております。それが奥様であっても、です」
扉の向こうにいる父を思うだけで、胸が張り裂けそうだった。
───お父様だけは、失いたくない。
幼い頃、熱を出した私を一晩中抱きしめてくれた腕の温もり。どんな我儘も受け止め、叱る時でさえ優しかった声。あの温かさを、私はもう一度だけでいい、確かめたかった。自分の愚かさが父を追い詰めたのだと思うほど、胸の奥が焼けるように痛む。
───せめて、声だけでも。
その願いさえ許されない現実が、何よりも残酷だった。
道を塞ぐのは、ジルベールが金で雇い、この屋敷に配置した直属の私兵。ミレーユ家に忠誠を誓っていた古参の騎士たちは、ジルベールの巧妙な差配によって、既に遠方の領地へと散り散りに飛ばされていた。
(……お父様の周囲から、ミレーユの息吹をすべて消し去るつもりね。徹底した男だわ)
胸が冷たく、重く沈む。その時だった。
「義父上のためだ……下がれ、シャルロッテ」
背後から響く、一滴の熱も含まない冷徹な声。振り返ると、そこにはジルベールが立っていた。窓から差し込む冬の光を背負い、その長身がシャルロッテの上に巨大な影を落とす。
「父に会わせなさい、ジルベール。娘が父を案じ、見舞うのに、これ以上の理由が必要だというの?」
「今の義父上は、精神的にひどく不安定だ。お前という『最大の刺激』は避けたい。これは医師の忠告でもあり、俺の判断だ」
平然と、慈悲のかけらもない論理で告げるその声に、シャルロッテは拳を握りしめた。
「刺激だなんて……。私は父の娘なのよ!」
「ああ、そうだな。だからこそだ。お前の顔を見るたび、お前の名前を聞くたび、義父上はあの日、ヴァレリオ公爵邸で起きたお前の不始末を思い出し、興奮される。自分が育てた娘が、家を滅ぼし、己をこの檻に追い詰めた元凶であるという現実にな」
「……っ!」
過去の罪を、白日の下に晒される屈辱。ジルベールの言葉は、シャルロッテが最も触れられたくない傷口を、容赦なく抉り取った。父が自分を拒絶しているのではない。父が自分を「見て」、苦しんでいるのだ。
「部屋へ戻れ。お前にはまだ、この家で果たすべき『役割』がある。……それとも何か? 懐妊の兆しでもあるのか? もしそうなら、特例として義父上に報告してやってもいいが」
ジルベールの黒い瞳が、シャルロッテの腹部を値踏みするように眺めた。
「……ありませんわ。そのような兆しは」
「そうか。なら役立たずだな。役立たずの贅沢品は、俺の商会では真っ先に切り捨てる対象だ。分かったら大人しくしていろ」
役立たず。その一言が、シャルロッテの身体を芯から震わせた。かつては「ミレーユの至宝」とまで称えられた自分が、今や商人の秤にかけられ、欠陥品として扱われている。
「……ええ。お望み通り、戻りますわ。旦那様」
震える指先を、握りしめた扇の骨の感触で誤魔化し、シャルロッテは完璧な淑女の微笑を作ってみせた。背筋を真っ直ぐに伸ばし、死刑台へ向かう女王のような歩取りで、長い回廊を歩く。その青い瞳には、もはや激情の炎は宿っていない。ただ、どこまでも深く、底の知れない暗い影が澱のように溜まっていた。
自室へ戻り、扉を固く閉めた瞬間、シャルロッテは壁に崩れるように手をついた。激しく、痛々しいほどの吐息が漏れる。部屋の机の上には、昨日から開かれたままの、父の古い帳簿が置かれている。
昨夜、絶望の中で縋るように開いたその帳簿。そこに並ぶ無機質な数字の羅列、父の癖のある筆跡。それは今の彼女にとって、この冷たい世界で唯一触れることのできる「家族の体温」だった。
(……お父様。私は、まだ……何も、何ひとつできません。あの男に言い返すことさえ……)
震える指で、帳簿の端をそっとなぞる。金糸の檻の中で、羽を毟られた鳥は、まだ鳴き方を知らない。
だが、静かに、静かに、心の奥底。かつて父が説いた「数字は嘘をつかない」という教えが、冷えたシャルロッテの心の中に、小さな、だが確かな火種を落とし始めていた。それがいつか、この檻を焼き尽くす業火になることを、ジルベールはまだ知らない。




