58.籠の鳥の晩餐
ミレーユ伯爵邸の朝は、静かすぎた。だが、その静けさよりもシャルロッテの胸を鋭く締めつけたのは───屋敷の無惨なまでの“変貌”であった。
かつて、亡き母が愛し、遠い東方の国から取り寄せたという淡い色彩の壁掛けは容赦なく外されていた。父フランソワが心血を注いで蒐集した、革装丁の香りが漂う重厚な書棚は「実用的ではない」という理由で陽の当たらない北の小部屋へと追いやられた。
代わりに廊下を占領していたのは、ジルベールが持ち込んだ、目が眩むほどけばけばしい金縁の絵画や、不自然な光沢を放つ巨大な大理石の彫像たちだった。
ミレーユ家の、数百年にわたる歴史を刻んできた繊細な彫刻の家具は、まるで価値のない“粗大ゴミ”のように屋敷の片隅へ押しやられている。新興成金の、力だけを誇示するような暴力的なまでの色彩と成金趣味。
(……やはり、成金は成金。伝統も格式も、何ひとつ理解していないのね。ただ高いものを並べればいいと思っている……下賤な感性だわ)
シャルロッテは心の中で、精一杯の冷笑を浮かべて吐き捨てた。だが、その強がりの裏側で、胸の奥がじわりと、血を流すように痛んだ。母の面影が塗り潰されていく。父の選んだ温度が、無機質な金箔の下に埋もれていく。この屋敷は、もはや彼女の愛した“家”ではなかった。ここは、ジルベール・デュランという男の「戦利品展示場」へと成り下がったのだ。
「奥様、本日のご予定ですが」
侍女の声が、冷え切った廊下の空気を切り裂くように響いた。
「午後よりデュラン商会の取引先の方々がお見えになります。旦那様より、貴族の『箔』が必要であるゆえ、必ず同席するようにとの仰せです」
「……分かりましたわ」
シャルロッテは鏡台の前で、短く答えた。今日の装いは、夜の帳のような深い青のドレス。彼女の陶器のような白い肌を際立たせる色だ。侍女の手によって完璧に巻かれた金髪の縦ロールを指先で整える。
「奥様、少し、お顔色が……。お疲れではありませんか? もしかしてご懐妊では……?」
侍女の何気ない言葉に、ふと、胸の奥がひどく冷えた。
──母の温もりを知らない私は、どうやって誰かを抱きしめればいいのかしら。
子を育てる環境の前に、まず“私自身”が空っぽなのだと思うと、足元が崩れ落ちるように怖くなった。母の温もりを知らない私が、誰かを抱きしめられるのだろうか。そんな不安が、鏡の中の完璧な微笑の裏で、静かに息を潜めていた。そして、そんな考えを打ち消すように頭を振った。
「問題ありません。いつものことですわ」
鏡の中に映る自分は、どこまでも完璧な、非の打ち所のない伯爵夫人の姿をしていた。しかし、その瞳の奥には、出口のない疲労と、凍りついたような孤独が澱のように沈んでいる。
(……弱った姿を見せるわけにはいかない。あの方に、付け入る隙を与えてはならない)
少しでも隙を見せれば、ジルベールという獣に“価値なし”という烙印を押され、家畜のように扱われる。それだけは、ミレーユの誇りにかけて避けなければならなかった。
応接間には、既にジルベールがいた。彼は窓際で、商会の報告書と思われる書類に目を通していた。その立ち姿は、優雅さとは程遠い。獲物を狙う野獣のような、張り詰めた力強さだけがそこにあった。
「遅い。客人を待たせるのが貴族の流儀か?」
「申し訳ありません。身支度を整えておりましたの」
優雅に、だが冷ややかに一礼するシャルロッテを、ジルベールは手に入れたばかりの競走馬でも眺めるような、品定めする視線で一瞥した。
「ふん……まあいい。そのドレスは似合っている。ミレーユ伯爵夫人としての外見だけはな。見栄えだけは一級品だ」
それは賛辞ではなかった。ただの「資産価値」への確認だ。シャルロッテは心の中でこみ上げる不快感を押し殺し、ひび割れそうな微笑を顔に張り付かせた。
その時、重厚な扉が音もなく開き、一人の女が滑り込むように入ってきた。
「失礼いたします。本日の会談に必要な、最新の流通資料をお持ちしました」
栗色の髪を夜会巻きにし、蛇のように鋭く、それでいて潤んだような瞳を持つ女。ジルベールの秘書であり、この屋敷に「仕事」という大義名分で居座り始めたマリアンヌだった。彼女は、あまりにも自然な、そして親密さを隠そうともしない動作で、ジルベールのすぐ隣に立った。そこが最初から自分の定位置であったかのように。
「マリアンヌは今後、商会の実務のためにこの屋敷へ頻繁に出入りする。お前の隣の部屋を、彼女の執務室として用意させた」
シャルロッテの胸が、わずかに、だが確実にざわついた。
(……仕事部屋? 妻である私の、すぐ隣に? この屋敷に他人を住まわせるというの?)
マリアンヌは、ジルベールの腕に触れんばかりの距離で、シャルロッテに向けて勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「よろしくお願いいたしますわ、奥様。不慣れな屋敷ゆえ、至らぬ点もあるかと思いますが……」
その声には、隠そうともしない嘲りと、優越感がたっぷりと含まれていた。
「奥様は、数字や契約といった血なまぐさいお話にはお詳しくないでしょう? 商会の面倒な実務は、私が旦那様を全力でお支えいたしますから、奥様はどうぞ、お茶でも楽しんでいてくださいな」
柔らかい笑顔の裏に潜む、猛毒。シャルロッテは微笑を崩さなかったが、胸の奥は急速に氷結していった。夫の隣に立つ資格があるのは「有能なパートナー」だけであり、自分はただの「無能な飾り」だ。マリアンヌの瞳は、そう雄弁に語っていた。
その後の取引先との会談は、シャルロッテにとって呼吸することさえ困難な、果てしない苦痛の時間だった。ジルベールは終始、シャルロッテを商談を円滑に進めるための「美しい置物」として扱い、彼女が口を開く機会など一度も与えなかった。
一方でマリアンヌは、ジルベールの問いかけに完璧に答え、数字を操り、取引先を魅了していく。まるで彼女こそがこの家の正妻であるかのように振る舞うその姿に、同席した商人たちもまた、シャルロッテを軽んじるような視線を送ってきた。
「奥様は、こういった利益の話は退屈でしょう? 私たちの世界は、お花やお茶の話とは違って、殺伐としておりますものね」
「ああ、奥様はただそこにいて、微笑んでくだされば。それだけで『名門』の箔がつくというものですから」
マリアンヌの放つ言葉の棘は、上品な社交の作法に包まれている分だけ、シャルロッテの柔らかな肌に深く深く突き刺さった。シャルロッテは一言も反論せず、ただ静かに座っていた。だが、胸の奥では、これまで彼女を支えていた何かが、パリンと音を立てて砕け散っていくのを感じていた。
夕刻。嵐のような会談を終えたジルベールは、シャルロッテに一瞥もくれず、マリアンヌと共に執務室へ消えていった。扉の向こうからは、低い男の声と、それを甘く受け止める女の声が漏れ聞こえる。
シャルロッテは、ひとり取り残された応接間で、すっかり冷めきった紅茶を見つめていた。水面に映る自分の顔が、ひどく惨めで、幽霊のように青白い。
(……私は、何のためにここにいるのかしら。何のために、息をしているの?)
答えは、夜の帳とともに降りてくる。跡継ぎを産むためだけ。血筋を繋ぐための、血統書付きの牝馬。それ以外の価値は、この屋敷の主にとって、存在しない。
夜。シャルロッテは自室で灯りもつけず、一人、深い暗闇の中にいた。厚い壁を隔てているはずなのに、遠くからジルベールとマリアンヌの話し声が聞こえるような気がしてならない。それは笑い声ですらない、事務的な、だが絶対的な信頼に基づいた親密な響き。
(……同じ屋敷の中で。私のすぐ隣で。平然と、私を無視して)
胸の奥が、冷たい泥を流し込まれたように重く、冷えていく。かつては自分が世界の中心であり、女王であったはずの誇り高い伯爵令嬢は、今や「産むためだけの器」として、そして「無能な居候」として、夫からその存在意義さえも否定されていた。
その時だった。静まり返った廊下の向こうから、ジルベールの低い、地を這うような声が微かに届いた。
「……あの女は、飾りとしては一級品だが、商売の役には立たん。数字を見せても、欠伸をするのが関の山だろう」
シャルロッテは暗闇の中で息を呑んだ。心臓の音が、うるさいほど耳に響く。
「ミレーユ家の名を使うには、法的な体裁が必要なだけだ。実務は、お前に任せた方が万事うまくいく」
「光栄ですわ、旦那様。……奥様には、せいぜいこの豪華な檻の中で、お人形のように静かにしていただくだけで十分ですものね」
マリアンヌの、蜜のように甘く、そして氷のように冷たい声。シャルロッテの胸が、万力で締め付けられるようにきゅっと縮んだ。視界が真っ暗になり、肺から空気が抜けていく。
(……私は、そんなに……そんなに、無価値なの……?)
涙は出なかった。あまりに深い屈辱と絶望は、涙さえも枯らしてしまうのだ。ただ静かに、深く、深く、彼女の心は沈んでいった。
自室の机に、シャルロッテは吸い寄せられるように手を置いた。そこには、ジルベールが持ち込んだ真新しい書類の山に紛れて、父フランソワがかつて実際に領地経営で使っていた、古い、角の擦り切れた帳簿があった。埃を被ったその表紙に触れた瞬間、幼い頃の記憶が、濁流のように押し寄せてきた。
『シャルロッテ、いいかい。数字は嘘をつかないんだ。人は嘘をつくが、この数字の並びだけは、その領地が、その家がどう生きてきたかを正しく教えてくれる。ミレーユを守るためには、言葉よりもこの並びを見るのだよ』
あの頃の、美しく輝いていた父。優しく自分の頭を撫でてくれた、あの温かな手。当時の傲慢だったシャルロッテは、そんな父の教えを「貴族に実務など不要ですわ」と笑い飛ばし、一度として理解しようとはしなかった。
しかし、その記憶は、今の凍てついた彼女にとって、世界で唯一の、消えかかった燠火のような温度だった。震える指で、帳簿を開く。
ただ、「父のものに触れていたい」「父の残した世界の中にいたい」───その切実な、子供のような想いだけだった。
月明かりの下、掠れた文字で書かれた数字の羅列をなぞる。その行為は、救いを求める祈りにも似ていた。父の癖のある筆跡。そこには、ジルベールが持ち込む冷徹な「利潤」だけの数字とは違う、領民を想い、家を想う、フランソワ・ミレーユの生きた証があった。
窓の外では、夜風が獣の唸り声のように冷たく吹いている。手入れを忘れられた庭園の枯れたバラが、カサカサと乾いた音を立てて揺れ、その棘の影が壁に長く、鋭く揺らめいた。
(……お父様……助けて……)
胸の奥が、焼け付くように痛む。だが、闇の底で、彼女はひとり、息を殺し続けていた。反撃の種が、その古い帳簿のページの中に隠されていることなど、まだ今の彼女は気づかない。
金糸の檻の中で、美しい鳥はもはや鳴き方さえ忘れてしまったかのように、ただ静かに、静かに、心を閉ざしていく。
ミレーユ伯爵邸は、今夜も無慈悲な静寂に包まれていた。




