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政略結婚のはずが、完璧公爵の溺愛が子リス系令嬢を解き放ちました  作者: 宮野夏樹
番外編

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アルファポリス累計30,000pt突破記念番外編 内扉の向こう側、賢者タイムならぬ公爵タイム ~あの日、老公爵夫人に投げられた宿題~


 ヴァレリオ公爵邸、執務室。


 深夜。静寂が支配する部屋で、ジュリアン・ヴァレリオは氷像のように固まっていた。手にした高級万年筆が、ミシミシと悲鳴を上げている。


(……世継ぎ)


 網膜に焼き付いたその三文字が、重要書類の行間から立ち上がり、彼を糾弾するように躍っていた。


 ロゼリア老公爵夫人がお茶会で放った、あの無邪気で残酷な一撃。


『ヴァレリオ家に可愛い世継ぎが誕生するという朗報が聞けるかしら?』


「……っ、はぁ……!」


 ジュリアンは天を仰ぎ、深く、重い吐息を漏らした。


 脳裏をよぎるのは、リシェルに似た、茶色の髪を持つ小さな「何か」だ。ぷにぷにとした頬、無垢な瞳。それがリシェルの腕に抱かれている光景……。


(尊い。……あまりにも、尊すぎる……!)


 その想像だけで、彼の高潔な理性はホワイトアウト寸前だった。だが、直後───。公爵としての「騎士道」と、男としての「良心」が、彼の脳内で激しい防衛戦を開始する。


(待て。落ち着けジュリアン・ヴァレリオ。……致すということは、即ち、あの清廉な彼女の肌に触れ、あられもない姿を晒させ、私の独占欲を直接叩き込むということだぞ!?)


 彼は思い出す。リシェルは18歳。名門貴族の令嬢として、結婚前に必要な「夜の作法」は一通り家庭教師から教わっているはずだ。


 対する自分は24歳。「氷の公爵」と恐れられ、社交界の未亡人たちの実践という名の誘惑を「時間の無駄だ」と一蹴し続けてきた結果───実戦経験、皆無。


(私は、座学のみだ……!)


 古今東西の医学書、生物学、果ては古典的な愛の詩に至るまで、知識だけは完璧に詰め込んでいる。天性の勘もあれば良いが………。だが、いざリシェルを前にして、教科書通りの手順で彼女を満足させられるのか?


 もし、あまりの愛おしさに加減を間違え、彼女を怖がらせてしまったら?


「……無理だ。今の私では、彼女を壊してしまう」


 彼は震える手で顔を覆った。


 隣室へ続く内扉。その向こうには、今、この瞬間も無防備に眠るリシェルがいる。薄い寝衣を纏い、もしかしたら、先ほどの「世継ぎ」という言葉に、彼女なりに戸惑いながら目を閉じているかもしれない。


(……もし、リシェルが「義務」として私を受け入れようとしていたら?)


(あの真っ直ぐな瞳で、「どうぞ、ジュリアン様」などと言われたら───私は、理性を保てる自信が微塵もない!)


「今行けば、私は公爵ではなく……ただの野獣だ」


 低く呟き、彼は立ち上がった。ふらつく足取りで洗面台へ向かい、凍るような冷水を顔に叩きつける。


 一度、二度、三度。


 滴る水滴が、首筋を通ってシャツを濡らすが、それすらも心地よい。


(彼女はまだ18歳。人生は長い。……今はまだ、彼女を『可愛いもの』として愛でるだけで十分ではないか。そうだろう?)


 鏡の中の、耳まで赤い自分に言い聞かせる。結局、その夜。ジュリアンは内扉に手をかけることすらできず、朝まで「理想の父親像」と「実戦における最適解」についての脳内シミュレーションを繰り返すだけで終わったのだった。




 ───そして、現在。


 同じ内扉の前に、二人は立っていた。かつての「壁」だった扉は、今や二人の親密さを象徴する境界線へと変わっている。ジュリアンは、リシェルの腰にそっと腕を回し、その耳元に唇を寄せた。


「……リシェル」

「ひゃっ……!  じゅ、ジュリアン様……?」


 リシェルがびくりと震え、首筋まで林檎のように赤く染める。


 あの日、お勉強で習った「夜のこと」を思い出し、理系脳がパンクしそうになっているのが手に取るように分かった。だが、今のジュリアンは、あの日、冷水で顔を洗っていた「臆病な騎士」ではない。


「……覚えているか。あの日、ロゼリア夫人が言っていたことを」

「え、ええと……その、よ、世継ぎ……のお話、でしょうか?」


 消え入りそうな声で答えるリシェルに、ジュリアンの瞳が深い熱を帯びる。


「そうだ。……あの夜、私は一晩中、内扉のこちら側で悶絶していた。お前を汚したくないという理想と、今すぐその扉を壊して抱きしめたいという本能の間でな」

「えっ……!?」


 初めて明かされる衝撃の事実に、リシェルが大きく目を見開く。ジュリアンはその潤んだ瞳を逃さず、指先で彼女の顎を優しく上向かせた。


「……“宿題”の期限は、もう十分すぎるほど過ぎた」


 囁く声は、もはや公爵のそれではなく。一人の、渇望する男のものだった。


「……そろそろ、提出の準備をしてもいいだろうか。……私の、可愛いリシェル」


 逃げ場を塞ぐように、顎に添えられていた手がリシェルの手に重なる。


 あの日、触れることすら恐れていたその指が、今は強く、確実に彼女を求めていた。


「……不束者ですが、よろしく、お願いいたします……」


 蚊の鳴くような、けれど確かな承諾。その瞬間、ジュリアンの理性がパチンと音を立てて弾け、彼は愛おしさのあまり彼女を強く抱き寄せた。


 内扉の向こう側。そこには、座学では決して学べない、二人だけの「熱い答え合わせ」が待っていた。

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