120,000PV突破記念SS 積層する熱、終わりのない一秒
夜は、音を失っていた。ヴァレリオ公爵邸の寝室。重厚なカーテンの隙間から、淡い月光が差し込み、すべてを青白く染め上げている。その静寂の中で───リシェルは、ふと目を覚ました。
「……」
───温もりが、ある。
───背中に回された腕。
逃がさぬように、しかし決して強すぎない力で抱かれている。そして、気配。見つめられている───と、すぐにわかった。ゆっくりと、瞼を開く。視線の先。そこにいたのは、ジュリアンだった。
眠ってはいない。ただ、静かに───あまりにも静かに、リシェルを見つめている。その瞳は、深い。まるで何時間も、同じ姿勢でそこにあったかのような、沈殿した熱を湛えている。
「……起きていらしたのですか?」
まだ夢の名残を引きずる声で、リシェルは問いかけた。だが、返事はない。代わりに、ジュリアンの指がそっと動いた。頬へ───触れる。指の背で、ゆっくりと。なぞるように、確かめるように。
「……っ」
くすぐったさにも似た感覚に、リシェルはわずかに身じろぐ。それでも、彼はやめない。ただ、触れる。ただ、見つめる。
(……言葉にするのが、惜しい)
ジュリアンの内側で、感情が静かに澱のように積もっていく。声にすれば、この贅沢な時間は壊れる。形を持った瞬間に、指の隙間から零れ落ちてしまう。
だから───触れることしかできない。髪へ、手を伸ばす。一房、掬い上げる。それを指先でほどきながら、唇を寄せる。一度、そしてもう一度。まるで、自分の所有物であることを刻印するように。
(離したくない)
その渇望は、あまりにも純粋で、あまりにも重い。リシェルは、耐えかねたように視線を逸らした。
「……そんなに見つめられると、落ち着きません」
小さく、吐息を含んだ声。頬に熱が集まる。逃げるように顔を伏せようとするが、それを許さない手があった。顎に触れ、ゆっくりと上を向かせる。逃げ場を、閉じるように。
「すまない」
低い声。それでも、どこか抗いがたい甘さを孕んでいる。
「だが、君を眺めていると、一秒が永遠に続くような錯覚に陥るんだ」
リシェルの瞳が揺れる。
「そして、その永遠を、すべて私だけのものにしたいと───どうしても願ってしまう」
静かな告白だった。激情を叫ぶわけではない。だがその分、逃げ場がない。リシェルの呼吸が浅くなる。
「……旦那様」
「これまでに、私たちが重ねてきたものは、すべてここにある」
ジュリアンは彼女の手を取り、自らの胸の上へと重ねた。とくん、とくん、と。指先から伝わる、確かな拍動。
「言葉も、視線も、触れた時間も……すべてが私の中に積もっている。……感じるかい?」
逃げられないように、その手の上から自らの掌を重ねて、強く押し当てる。
「君への想いは、もう、私という器では抱えきれないほどの質量になっているんだ」
次の瞬間、抗う隙もなく強く抱き寄せられた。耳元に、熱い唇が寄る。
「君を愛し抜くには、この先の人生すべてを使っても、足りそうにない」
囁きは、どこまでも静かだった。だがその言葉に込められた意味は、一生を縛り付ける鎖のように重かった。リシェルは、もう抗えなかった。逃げようとする意志すら、彼の体温に溶けていく。ただ───沈む。彼という深淵の中へ。窓の外では、やがて空が白み始める。
けれど、この部屋だけはまだ深い夜のままだった。リシェルは、薄く目を閉じる。
(……逃げられない)
ふと、思う。この方の、底の知れない愛からは。逃げることなど、きっと───一生、できはしない。けれど、それが怖いとは思わなかった。むしろ、わずかな安堵に似た感情が、彼女を包み込む。再び、意識が深い眠りへと沈んでいく。
そのすぐ傍で、ジュリアンはまだ、目を閉じない。腕の中の温もりを、何度でも、何度でも確かめるように。積み重なる「終わらない一秒」を、愛おしそうに抱きしめ続けていた。




