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政略結婚のはずが、完璧公爵の溺愛が子リス系令嬢を解き放ちました  作者: 宮野夏樹
番外編

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累計500pt突破記念SS 公爵閣下の理性のダムと、五百八十八の献上物


 ヴァレリオ公爵邸の庭園は、今日も恐ろしいほどに完璧だった。一点の曇りもない青空の下、整えられた花壇には季節の花々が咲き乱れ、計算し尽くされた木陰が涼やかなコントラストを描き出している。風の通り道さえも、まるで公爵家の権威を誇示するかのように、一分の隙もなく設計されているかのようだった。


 その庭園の中央、白磁のように美しい長椅子に、リシェル・ヴァレリオは静かに腰を下ろしていた。背筋をぴんと伸ばし、顎をわずかに引いたその姿は、一幅の絵画のように優雅だ。


 膝の上には、編み目の細かな小さな籠がひとつ。リシェルは、その中身を慈しむように、細く白い指先でひとつひとつ、丁寧に数えていた。


「……五百八十七、五百八十八」


 最後の一つを数え終えると、彼女はそっと吐息をもらした。端から見れば、それは初々しい公爵夫人が秋の訪れを楽しんでいる、穏やかな光景に過ぎないだろう。だが、リシェルの内面は、それとは正反対の激しい戦いの真っ只中にあった。


(よっしゃあああ……! 今日もやりきったわ、私……!)


 心の中で、リシェルは猛々しく拳を突き出していた。公爵夫人としての一日。それは、一瞬たりとも気を抜けない真剣勝負だ。朝の挨拶から食事の作法、使用人への指示に至るまで、完璧な淑女としての仮面を貼り付け、気品という名の鎧を纏い続ける。


 少しでも気を緩めれば、自分の中に潜む「男前」な本性が顔を出してしまう。「やってやるわ!」と叫び出したい衝動を飲み込み、優雅に微笑む。その過酷な労働の対価が、今、この籠の中に詰まっていた。


 籠を満たしているのは、領民たちが「公爵夫人へのささやかな贈り物」として届けてくれた、どんぐりだ。宝石でもなければ、高価な絹織物でもない。ただの山の実。しかし、リシェルにとっては、何物にも代えがたい「戦果」であった。


(……これ、全部。私が頑張った証なのよね)


 慣れない異境の地で、怖いくらいに完璧な夫の傍らで、必死に「公爵夫人」を演じてきた自分。その努力を、誰かがどこかで見ていてくれた。このどんぐりの一粒一粒が、自分に向けられた温かな承認のようであり、明日も戦い抜くための貴重な薬のように感じられた。


「……ふふ、ありがとう」


 リシェルは、艶やかな茶色の実をひとつ手に取り、愛おしそうに目を細めた。その瞬間、ふとした不安が脳裏をよぎる。


(……もしも、いつか。旦那様に本当の私を打ち明けたら、どうなるのかしら)


 自分は、彼が思っているような、風に吹けば飛ぶような儚い小鳥ではない。案外図太く、根性だけは人一倍ある、鋼の入った粘土細工のような女なのだと知ったら。


(……きっと、幻滅されてしまうわね。あんなに完璧な方だもの)


 リシェルは、寂しげな微笑みを浮かべ、再びどんぐりを籠に収めた。




「……五百八十八個、か」


 地を這うような低い声が、回廊の影で響いた。ヴァレリオ公爵、ジュリアンは、石造りの柱に身を隠すようにして、庭園の妻を凝視していた。その瞳は、獲物を狙う鷹のように鋭い……が、その実、内側では猛烈な嵐が吹き荒れていた。


(尊い……ッ! なんだ、あの生きる奇跡は……!?)


 ジュリアンは、握り締めた拳を震わせ、必死に「公爵としての威厳」を保とうとしていた。どんぐりに触れるたびに、リシェルの指先が微かに揺れる。その小さな肩が、安堵に緩む。


 あの日、自分の隣を歩きながら「繋がった寝室」の提案に動揺も見せなかった凛々しい彼女が、今はあんなにも無防備な、愛らしい姿を晒している。


(なぜだ。なぜ、あんなにも胸を打つ。……ああ、今すぐ駆け寄って、その柔らかな髪を撫で回したい。いや、そんなことをすれば彼女を怯えさせてしまう。俺のような人間が近づくなど、不遜ではないか……?)


 ジュリアンの中で、理性のダムは決壊寸前だった。彼にとって、リシェルは不可侵の神域だ。同時に、喉から手が出るほど愛おしい、唯一無二の伴侶。その葛藤が、彼の表情を氷のように冷たく、険しいものに変えていく。


「セドリック」

「はっ、旦那様。お心はすでに察しております」


 影のように控えていた執事長が、無表情に応じた。主人が、リシェルの持つ「どんぐり」に対して、強烈な、そして歪んだ対抗心を燃やしていることを、彼は熟知していた。


(……あのどんぐり共め。俺が贈った最高級の真珠よりも、あんな道端の木の実の方が、彼女をあんなにも幸せそうにさせるのか?)


 ジュリアンの胸を、暗い焦燥が焼く。もしかすると、自分の愛が足りないのではないか。彼女がどんぐりに救いを求めるほど、自分は彼女を孤独にさせているのではないか。

 

「集めろ」

「は……?」

「どんぐりだ。領内全域から、一粒の傷もない、完璧なものだけを選別させろ。……数は、そうだな。まずは一万。いや、足りないか。三万だ」


 ジュリアンの瞳に、冷徹なまでの決意が宿った。セドリックは一瞬だけ天を仰いだが、すぐに深く頭を下げた。


「……かしこまりました。ただちに手配を」





 その夜。公爵邸の私的な食堂で行われる夜の茶会。まだ二人は、初夜を共にしていない。テーブルを挟んで向かい合う二人の間には、優雅なティーセットと、目に見えないほど高い「壁」が存在していた。


「……本日は、素晴らしいお天気でしたわね」

「ああ、そうだな」


 リシェルは、喉を通るお茶が苦く感じるほどの緊張に包まれていた。


 ジュリアンの顔が、いつにも増して怖い。氷を彫り出したような冷ややかな美貌が、今は怒りに震えているようにさえ見える。


(……怒らせたかしら。庭で、どんぐりなんて数えていたのが、公爵夫人として不適切だった……?)


 リシェルは、胃のあたりがキリキリと痛むのを感じながらも、決死の覚悟で話題を切り出した。


「あの……旦那様。本日は、領民の方々から贈り物が届きまして」

「……どんぐり、だったな」


 ジュリアンの声が、わずかに低くなった。リシェルは、びくりと肩を揺らす。


「は、はい。とても心のこもったもので……。私、あの方々の想いに触れて、とても勇気をいただいたのです」


(勇気、だと……?)


 ジュリアンの内心が、一気にざわめいた。


(俺の存在ではなく、どんぐりが彼女に勇気を与えたというのか。やはり、俺は彼女にとって、ただの恐ろしい男でしかないのか……)


 沈黙が流れる。


 ジュリアンの表情は、ますます険しさを増していく。リシェルは、その沈黙を「不機嫌」と受け取り、喉元まで込み上げた不安を、男前な根性でねじ伏せた。


(───でも、これだけは伝えたい。私は、あなたの妻になれて嬉しいのだと)


 リシェルは、震える手で籠の中から、もっとも形の良い、黄金色に輝くどんぐりを一粒取り出した。そして、それを守るように両手で包み、ジュリアンへと差し出した。


「……これを、ひとつ。旦那様に」

「……俺に?」


 ジュリアンの瞳が、大きく見開かれた。リシェルは、伏せがちだった目を上げ、まっすぐに夫を見つめた。その瞳には、淑女の微笑みの裏に隠した、不器用で、けれど真っ直ぐな情熱が宿っていた。


「皆様の真心なんです。私……この贈り物に、そして何より、あなたの妻であるということに恥じない人間でありたいと、思っておりますの」


 リシェルの白い指先が、ジュリアンの大きな掌に触れた。


 一瞬。


 本当に、瞬きの間ほどの接触。だが、ジュリアンの脳内では、轟音と共に理性のダムが完全に消失していた。


(触れた……!? 今、彼女が、俺に……!)


 手の中に残る、微かな温もり。差し出された、小さな木の実。


 それが、彼女にとっての「頑張りの証」であることを。そして、それを自分に分かち合おうとしてくれたことを。理解した瞬間、ジュリアンの冷徹な仮面は、内側から溶け落ちる寸前だった。


「…………大切に、しよう」


 絞り出すような声。それは、震えを隠すために、いっそう低く、響いた。リシェルは、その重苦しい声に、またしても誤解を深める。


(……呆れられたかしら。公爵にどんぐりなんて。でも、受け取ってくださったわ)


「ありがとうございます、旦那様」


 リシェルは、完璧な淑女の礼をとった。その内側で「よっしゃあああ、通じた!」と叫んでいる自分を、必死に押し殺しながら。




 夜も更け、二人はそれぞれの寝室へと戻った。ヴァレリオ公爵邸の伝統に従い、隣り合った二つの部屋。リシェルは、ベッドの縁に腰掛け、大きく肩を落とした。


「……はあ……。死ぬかと思ったわ」


 額の汗を拭い、彼女は小さくガッツポーズをした。


「でも、受け取ってくれたわ。あの旦那様が。……明日も、頑張らなきゃね」


 彼女は、胃をさすりながら、明日への気合を入れ直した。




 一方、隣の部屋。ジュリアンは、部屋の灯りをすべて消し、ただ一つ、月の光だけが差し込む机の前に座っていた。机の上には、最高級の宝石箱が置かれている。


 その、かつて王家から賜った真珠すら退けられた特等席に。一粒のどんぐりが、鎮座していた。


「…………五百八十八」


 ジュリアンは、その実を、壊れ物のように指先でなぞった。彼の頭脳は、すでに狂気じみた計画を練り上げている。


(彼女が、あのどんぐりを『真心』だと言った。ならば、俺が示すべきはそれを凌駕する絶対的な真心だ。……三万では足りない。十万、いや、領内のすべての木を調査させろ)


 彼は、手の中のどんぐりを、切実なまでの情熱で見つめ続けた。まだ、二人の距離は、どんぐり一個分ほどしか縮まっていない。


 だが、ジュリアン・ヴァレリオの理性のダムは、もう二度と、元の形に戻ることはないだろう。


 静かな月夜。隣り合う二つの部屋で、二人はそれぞれの「戦い」を胸に、眠れぬ夜を過ごしていた。

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