第8話 母の道具は、十年働いていた
十年間働き続けた道具へ、最初にしてはいけないことがある。
いきなり外すことだ。
私は母の器具へ伸ばしかけた手を引っ込めた。
透明なひびは、金属の両端でかろうじて止まっている。外せば、道具そのものは調べられる。
代わりに、精霊王の歯が二つに割れるかもしれない。
道具を調べる代わりに、患者の歯を割る。
治療中に選ぶ交換条件としては、かなり悪い。
「そのままでいて」
道具へ言った。
古い鏡が、季節の光を鈍く返す。
返事はない。
道具は嘘をつかないが、説明もしてくれない。
私は可動鏡で角度を変えながら、母の器具と黒い根の位置を記録板へ写した。
黒い根は四本。
春の地面では細かな枝を増やし、夏の場所では光を吸い、秋の葉の下では色を失い、冬の土では硬く縮んでいる。
季節に合わせて、形まで変えていた。
中心だけを引けば、四本とも動くだろう。
同時に、四か所が痛む。
寝台で開いた四枚の葉を思い出す。
「一度に抜くのは駄目ですね」
命綱を二度引いた。
二度、返る。
今度は早い。
足元の草が伸び始める前に、入口へ戻った。
輪を越えると、ヴァルドが私の外套をつかんで引き出した。
「自分で出られます」
「先ほどは、春に食われかけていたそうだな」
「見えてたんですか」
「綱の動きでわかる」
「では、三回の合図へもっと早く返事を」
「貴様が止まらぬのもわかっていた」
患者側の歯医者理解が深まっている。
喜ぶべきかは、保留したい。
「中に、古い器具が残っています」
記録板を、寝台脇の机へ置いた。
「ひびの両側へ爪を掛けて、広がるのを止めてる。中央の継ぎ手は、母の道具と同じ形です」
ヴァルドが記録板を見た。
金色の目が動かない。
「知っている道具ですか」
「エルナが、余の牙にも使った」
「では、母は治療に失敗して、全部壊したわけじゃない」
ノエが机へ手をついた。
「事故の記録を疑うのですか」
「記録と現物が違います」
「十年前の器具を、見間違えている可能性は」
「あります。だから、現物と記録を並べます。記録を見せてください」
「部外者には――」
寝台から、残った三枚の葉をつけた蔓が机まで伸びた。
細い蔓はノエの手首へ巻きつき、記録板の絵へ導く。
ノエは長く黙ったあと、蔓へ額を寄せた。
「……陛下のご命令として承ります」
案内された記録室は、塔の根元にあった。
壁も棚も白い木でできている。紙の代わりに乾いた葉が重ねられ、一枚ごとに細かな文字が刻まれていた。
ノエが最奥の棚から、白い根で封じられた箱を下ろす。
「原記録は、王都の調査官がまとめたものです。調査後に塔へ返されましたが、現王の命令なしには開けません」
「侍医長でも?」
「私が読めたのは、塔へ残された要約だけです。事故当時は見習いで、治療区画の外へ避難していました」
ノエの手首に巻かれた蔓が、箱へ触れた。
白い根がほどけていく。
ノエが十年前の束を机へ置く。
一番上には、母の名があった。
エルナ。
見慣れた名前なのに、他人の記録にあるだけで喉が狭くなった。
「事故当日の記録です」
私は一枚ずつ読んだ。
先代精霊王の歯にひび。
季節の乱れ。
人間の治療師が内部へ進入。
その後、器具が破損し、王の力が暴走。治療師は退避命令に従わず死亡。
最後に、こうある。
持ち込まれた器具はすべて破壊され、回収不能。
その下には事故後の処理として、鏡二本、留め具一組、手回し器具三本を調査官へ引き渡したと記されていた。
回収できなかった物を、どうやって数えて送ったのだろう。
数が合わないだけなら、書き間違いで済む。
回収不能と引き渡し済みが、同じ葉に並んでいるのは、書き間違いでは済まない。
「塔の要約にも、この二つが?」
「回収不能とだけ。引き渡しの目録は、この原記録で初めて見ました」
少なくとも、塔の者は二つを並べて読む機会すらなかった。
「違います」
「何がです」
「一本は、今も働いてる」
私は記録板の絵を隣へ置いた。
「ひびを広げた器具じゃない。歯が割れるのを十年間遅らせた器具です」
ノエの唇が固くなる。
「事故のあと、残った道具は調査のため王都へ送られたと聞いています」
「町の記録でも、そうなっています」
「なら、この記述は」
「少なくとも、現物を確かめずに書かれた」
葉をもう一枚めくる。
文字の色が、途中で変わっていた。
事故の経過は淡い茶色。母を無謀と断じる最後の三行だけ、黒に近い。
「これ、同じ日に書かれていますか」
ノエが葉を光へ透かした。
「……最後だけ、樹液が新しい。数日後に追記されています」
「確認できるのは、追記の時期が違うことまでです。書いた者と目的は、まだ推測に分けます」
「はい」
工具を取り上げようとした人は、推測へ向ける刃も鋭いらしい。
道具だけではない。
記録も、あとから形を変えられていた。
「ヴァルド」
私が振り向く前に、彼は答えた。
「余がエルナを推薦した」
記録室の入口に、白髪の大男が立っている。
「先王の季節が乱れ、他の治療師では届かなかった。余の牙を治した者ならばと、余が名を出した」
「母が中へ入ったとき、あなたは」
「境界の外にいた。王同士の力が触れれば、先王も余の国も傷つく。追うことはできなかった」
ヴァルドの右手が、ゆっくりと拳を作った。
「エルナは、黒いものを見つけたと告げた。その直後、四季が一度にあふれた。余は綱を引いた」
「母は?」
「戻らなかった」
「なぜ」
「自ら綱を切った」
一瞬、意味がわからなかった。
「境界を閉じると言った。力を外へ漏らせば、塔だけでは済まぬと」
「命綱が、入口を支えていたんですか」
「違う。境界を支えていたのは輪だ。余が引けば、エルナは入口へ戻され、内側の留めを外せぬ。あやつは綱を切ってその場に残り、輪の内側の爪を外した」
「それで、入口が」
「閉じた」
母は、患者の声を聞けと言った。
その母が、自分の声を外へ届かなくした。
「誰にも、手伝わせなかったんですね」
「余には、止められなかった」
謝罪ではなかった。
十年間、言えなかった事実を机へ置く声だった。
今すぐ許せるかと聞かれれば、無理だ。
責める言葉なら、いくらでも出る。
けれど、今ここで責めるだけなら簡単だった。
脇袋の小瓶が、割れそうな勢いで鳴った。
塔が大きく揺れる。
寝殿の方で、硝子の割れる音がした。
寝台から記録室まで伸びていた蔓の葉が、一斉に黒ずんだ。
私は走った。
寝殿へ戻ると、入口の輪の向こうで、母の古い鏡に一本の亀裂が走っていた。
十年間耐えた金属の爪が、片側だけ外れている。
黒い四本の根が、待っていたように白いひびへ食い込んだ。
アステルの目が、一瞬だけ開く。
春、夏、秋、冬。
四つの色が、瞳の中でぶつかっていた。
「いっぺんに、抜かないで」
かすれた声だった。
直後、白い枝が寝殿の床を突き破った。
私の頬を、硬い木の先端が浅く裂く。
床へ落ちた血を見て、ヴァルドの金色の目が赤く染まった。




