第7話 春の森ほど信用できない
母が死んだ場所を、私は十年間、間違えていた。
「前の精霊王の治療だったんですね」
「そうだ」
「でも、今の王とは身体が違うのに、傷は残るんですか」
「王の歯は、ただの肉の歯ではありません」
答えたのはノエだった。
「王位が渡れば、国土とのつながりは新しい王の歯へ移ります。ただし、王本人の傷がすべて移るわけではありません。土地の側へ食い込んだ傷と異物、それを支えるために内部へ残された物だけです」
「先代は、その事故で?」
「亡くなってはいません。ただ、国土との接続を保てず、アステル陛下へ王位を譲られました」
王を代えれば、病まで消えるわけではない。
普通の虫歯や古傷まで、次の王へ押しつけられるわけでもない。
先代が抱えた傷を、アステルは王位とともに引き継いでいた。
ヴァルドは、今度はごまかさなかった。
「母をここへ連れてきたのは?」
「余だ」
短い答えだった。
短すぎて、怒りを差し込む場所がない。
「それを、どうして今まで」
寝台の上で、アステルの指に咲いた四枚の葉が震えた。
窓の外では、雪を押しのけて蔓が伸びている。問い詰める相手は起きている。患者は、まだ目を覚ませない。
順番を間違えるな。
母の声ではない。
三か月前に、自分で覚えたことだった。
「話はあとです」
私は入口の輪を作業布の上へ置いた。
「今は、この歯に入ります」
「許可できません」
ノエがすぐに返した。
「十年前と同じことを繰り返すおつもりですか」
「同じにしないために診るんです」
「同じ道具を使って?」
痛いところを突く。
入口の輪にはヴァルドの鱗を細く削った縁材が入っている。竜王の火には耐えた。しかし、別の王の力を支えるための材料ではない。
切り離された鱗は、ヴァルド本人のように国土を連れてこない。境界へ持ち込むだけなら、二つの国がぶつかることもない。
けれど、竜の火になじむ材料が、精霊王の四季まで支えられるわけではなかった。
私は留め金を外し、黒鉄色の縁材を抜いた。
「ヴァルド。鱗は預かっててください」
「返す気になったか」
「違います。他の患者さんに合わないだけです」
「ならば、終われば戻せ」
受け取った鱗を、ヴァルドは外套の内側へしまった。
返却ではなく、一時保管だと理解している。腹立たしいほど話が早い。
「アステル陛下」
私は寝台の脇へ戻った。
「入口を支えるため、あなたの葉を一枚いただけますか」
四枚のうち、若草色の葉が自分から枝を離れた。
私の掌へ落ちても枯れない。
ノエが目を見開く。
「陛下が、外の者へ枝葉を渡すなど」
「外の者かどうかより、患者本人の返事を見てください」
葉の芯を細く裂き、輪の溝へ沿わせる。留め具を締めると、緑の線が一周した。
輪を歯のひびへ近づける。
空気が水面のようにへこんだ。
向こう側に、白い木々が見える。
入口は開いた。
ただし、森の半分では花が咲き、半分では吹雪が横向きに走っていた。
「聞いておきます」
私は命綱の端をヴァルドへ差し出した。
「別の王の歯には入れないんですよね」
「現役の王が境界を越えれば、二つの国土が互いを食う」
「爪だけでも?」
「同じだ。今度は、あのようには拾えぬ」
あのように。
巨大な爪で歯を壊しながら助けられたことを思い出す。
「では、落とさないでください」
「落ちる前提で話すな」
ヴァルドが綱を手首へ二重に巻いた。
ノエは納得していない顔だったが、入口を閉じさせようとはしなかった。
さっきまで私の工具鞄を見張っていた目が、今は綱の結び目を一つずつ確かめている。
監視の対象が、一つだけ変わった。
「三回で止めます。二回で確認。一回は進め」
「勝手に増やしたのは貴様だろう」
「便利だったので正式採用しました」
「使用料を払え」
「歯の点検一回で」
「二回だ」
交渉が成立したところで、私は輪をくぐった。
足の裏へ柔らかな草が触れる。
竜王の歯は火山洞窟だった。
精霊王の歯は、森だった。
透き通った幹が並び、その中を淡い光が水のように流れている。頭上には桜に似た花。遠くには赤い葉。右手では蝉が鳴き、左足の靴底には霜がついた。
四季が分かれているのではない。
一歩の中で重なっていた。
帰り道を失わないよう、腰の袋から銅の鋲を出した。
一本目を地面へ刺す。
若葉が巻きついた。
二本目は、刺した途端に熱くなる。
三本目には赤い苔が生え、四本目は霜で白くなった。
同じ鋲が、置いた場所によって別の物に見える。
さらに悪いことに、アステルが浅く息をするたび、四本の変化が一つずつ隣へ移っていった。
季節は場所ではない。
動いている。
私は鋲を目印にするのをやめ、細い鎖で四本をつないだ。色が変わっても、互いの距離までは変わらない。
見た目より、測れるものを信じる。
今度は、その測り方が患者の呼吸で変わることも忘れない。
「まず、ひびの位置を」
可動鏡を伸ばす。
白い幹の間を、黒い根が四方向へ走っていた。竜王の歯から抜いた物より細い。その代わり、広く張っている。
中心を探そうと、花の多い方へ足を向けた。
春なら、吹雪より安全だろう。
そう思った。
踏んだ草が、足首へ巻きついた。
「え」
花が一斉に開く。
蔓が膝、腰、工具鞄へ伸びた。一本切るたび二本に増え、若葉が刃を包んで止める。
成長が速すぎる。
春は安全なのではない。
何でも増やす季節だった。
命綱を三度引く。
返事がない。
「ヴァルド!」
綱は張っている。外へは伝わっているはずだ。
けれど蔓が輪の前を塞ぎ、引き戻される身体を地面へ縫いつけていた。
火山洞窟で使った刃では追いつかない。
腰の横へ手を伸ばし、短い鉤綱を抜く。空へ投げるのではなく、離れた冬の地面へ投げた。
鉤が凍った根へ噛む。
綱を引き、身体を春から冬へ滑らせた。
巻きついた蔓が凍る。
一気に脆くなった。
「季節は、使いようですね」
誰も聞いていない。
少し寂しい。
凍った蔓を割って立ち上がる。
命綱が三度、強く引き返された。
今さら止まれの合図である。
「遅い!」
外へ叫ぶと、綱が一度だけ返った。
進め、らしい。
私は可動鏡を低くして、黒い根を追った。
四本は森の中央で重なっている。
そこには、白い幹を横切る透明なひびがあった。
ひびの間へ、金属の棒が一本、橋のように渡されている。
錆びていない。
両端の曲がった爪が白い壁へ食い込み、広がろうとするひびを押さえていた。
その中央には、小さな丸い鏡がついている。
持ち手をひねれば角度が変わる、古い継ぎ手。
私は、その形を知っていた。
母の革箱に残った部品をもとに、同じ形を七度も作り直した。
黒い根は、十年前の器具を避けるように四方へ分かれていた。
母が根を四つに分けたのではない。ひびを横切る器具を避け、黒い根が十年かけて四方へ回り込んだのだ。
完治には届いていない。それでも、歯が割れるのを今日まで遅らせた。
捨てられた道具ではない。
今も、ひびを支えている。
母の治療は、十年間、一度も止まっていなかった。




