第6話 患者は、四季の夢を見ている
三か月待たされた診察室には、患者より口を閉ざした人間が多かった。
正確には、人間ではない。
枝を角のように生やした者。髪の間で花を咲かせている者。肩に小鳥を二羽とまらせたまま、私を小鳥より信用していない者。
全員、白い寝台の周りに並び、私の工具鞄を見張っていた。
「中身を改めます」
塔前で私を荷物持ちと呼んだ使者が、手を差し出す。
「お断りします」
「精霊王陛下のお側へ刃物は持ち込めません」
「歯医者から刃物を取ったら、口の悪い小娘しか残りませんよ」
「自覚があるなら、口もお預かりします」
この人とは仲良くなれそうにない。
三か月前、あの緑の葉が工具店へ飛び込んできたあと、私たちは何度も返事を送った。
葉に書いた。鳥に持たせた。ヴァルドが王の印を押した書状まで送った。
戻ってきたのは、受け取りを拒む丁寧な文章ばかりだった。
あとで分かったが、最初の葉は王宮からの依頼ではなかった。十年前、母の工房とつながれていた警告用の枝が、歯の細いひびに反応して勝手に飛んできただけだ。
王宮は葉が飛んだこと自体を知らず、当時のアステルにはまだ意識があった。宮廷の治癒師が痛みを抑えられるうちは、人間の歯医者を塔へ入れる危険のほうが大きい――そう判断されたらしい。
その間に私は、ヴァルドの補修した牙を四度調べ、旅用に工具鞄の留め具を三度作り直し、一度だけ竜王の鱗を追加で要求した。
最後の仕事だけは失敗した。
今朝になって、精霊王が三日前から目を覚まさないという書状が届いた。宛名はヴァルドだけ。私の名前はどこにもなかったらしい。
だから竜王は、私を勝手に背へ乗せてきた。
その結果が、空からの落下である。
患者へ着く前から治療師を殺しかける移動方法には、改善の余地が多い。
「鞄は開けさせぬ」
背後からヴァルドの声が落ちた。
白髪の大男は、寝殿の天井が低く見えるほどの巨体で、機嫌悪そうに立っていた。
「余が持ち込ませた。異論は余へ言え」
「竜王陛下。十年前にも、その保証で人間の治療師を通した結果が――」
「ノエ」
名を呼ばれ、使者は口を閉じた。
ノエというらしい。覚えておこう。工具を取り上げようとした人、と一緒に。
私は二人の間を抜け、寝台へ近づいた。
精霊王アステルは、私と同じくらいの年に見えた。
長い髪は白い。ただし毛先だけが、息をするたび若草色、深緑、赤、銀へ変わる。閉じた目の周りには、薄い霜が浮かんでいた。
「三日前から、一度も?」
「目覚めておられません」
ノエが答える。
「食事は」
「朝露と樹液を」
「固い物は?」
「陛下は人のように噛まずとも――」
「食べたか、食べてないかで」
ノエの眉が動いた。
「……五日前、冬蜜の実を」
「どちら側で噛みました」
「記録にありません」
記録がない。
ヴァルドのときなら、私はそこで歯へ顔を近づけていた。
今は、寝台の上に置かれたアステルの手を見た。
右手の指だけが、硬く曲がっている。
「口を開けてもらえますか」
「お目覚めでないと申し上げました」
「本人に聞いてます」
ノエが息をのむ。
私は寝台の脇へしゃがんだ。
「アステル陛下。私はリタです。歯を見たい。嫌なら、何でもいいから動かしてください」
返事はない。
窓の外で雪が降り始めた。直後に日差しが強まり、屋根の雪が一気に溶ける。
やはり意識はないのだろうか。
そう思ったとき、アステルの右手から小さな芽が出た。
人差し指に巻きつき、葉を一枚だけ開く。
「今のは?」
「陛下の力が漏れただけです」
「では、もう一度。歯に触れていいなら、葉を開いてください」
「おやめなさい」
最初の葉が閉じ、すぐにもう一度開いた。
ノエが黙った。
葉が開けば肯定。閉じたままなら否定。
少なくとも、その二つは通じている。
開いた葉が、いったん閉じた。
「ずっと痛みますか」
変化はない。
「噛んだとき?」
若葉が開く。
返事を終えた葉が、また閉じた。
「右ですか」
葉は動かない。
「左ですか」
葉が一枚開く。
葉が閉じる。
「一か所だけ?」
動かない。
「二か所ですか」
動かない。
「三か所以上?」
アステルの指に、赤い葉が一枚開いた。
葉が閉じるのを待つ。
「四か所ですか」
芽が一気に伸び、春の若葉、夏の厚い葉、赤い枯れ葉、霜をまとった葉を一枚ずつ開いた。
四つ。
四季と同じ数だった。
四枚の葉がいったん閉じるのを待ち、私はさらに、冷たい物、熱い物、甘い物を口へ入れたときの痛みを順に尋ねた。
冷たい物では霜の葉。熱い物では厚い夏葉。甘い物では若葉と枯れ葉が同時に揺れる。
返事はばらばらだった。
眠ったまま適当に力を漏らしているのなら、質問ごとに違う葉を選べるはずがない。
アステルは聞いている。
ただ、四つの痛みに意識を引かれ、目を覚ませずにいるように見えた。
「眠っているんじゃない」
私は葉へ触れないよう、アステルの手首へ指を添えた。
「四つの痛みに、意識を引っ張られてる」
ノエの顔から、初めて疑いの色が一つだけ消えた。
「そんな診断を、手を見ただけで」
「本人に聞きました」
「訂正します。陛下が返答されたことは、私にも確認できました。診断が正しいかは、まだ別です」
丁寧で、容赦がなく、妙に正確だった。
工具鞄から可動鏡を出す。
ノエは止めなかった。
アステルの唇へ近づけると、四枚の葉がわずかに震えた。口が、自分の力で少しずつ開く。
奥歯は硝子のように透き通っていた。
中央に一本のひび。
周囲の歯茎には腫れがない。歯の表面にも、ヴァルドのときのような穴は見当たらない。
入口になりそうなのは、髪の毛ほど細いひびだけだった。
それでも可動鏡を傾けると、歯の外見より深い場所から光が返ってくる。
その奥で、黒いものが四方へ枝を伸ばしている。
脇袋の小瓶が鳴った。
一度ではない。
四度、同じ間隔で。
「ヴァルド」
「同じ物に見えるか」
「似ています。でも、形が違う」
私は入口の輪を取り出した。ヴァルドの鱗で補強した縁が、赤くではなく淡い緑に光り始める。
使える。
そう判断して歯へ近づけると、ヴァルドが私の手首をつかんだ。
「まだ入るな」
「診ないと道具を作れません」
「ここがどこか、貴様は知らぬ」
「精霊王の寝室でしょう」
「そうではない」
金色の目が、透明な歯ではなく、寝台の向こうの壁を見た。
そこには古い傷があった。
枝を編んだ白い壁の一部だけが黒く焦げ、上から新しい枝を重ねても隠しきれていない。
「十年前、エルナが死んだのは、この塔だ」
入口の輪が、私の手の中で冷たくなった。
母が死んだ患者は、竜王ではなかった。
この寝台の、前の持ち主だった。




