第5話 虫歯一本を攻略する
二度目の竜王の歯は、一度目より静かだった。
静かすぎる、と言ったほうが正しい。
入口の輪を越え、火山洞窟の岩棚へ降りる。溶岩の川は流れているのに、音が遠い。
白い岩壁の明滅も弱く、呼吸と呼吸の間が長くなっていた。
「ヴァルド、聞こえますか」
『聞こえている』
空から返る声にも、昨日までになかった疲れがにじんでいる。
「息は四つで吐いて、二つ休む。変えないでください」
『誰に命じている』
「患者兼、熱源です」
『その呼び方はやめろ』
文句を言う元気はあるらしい。
私は命綱を二度引いた。
外からも、二度。同じ強さ、同じ間隔で返ってくる。
この人は小さな留め具を扱えないくせに、命綱だけは妙に正確だ。
確認の合図は通じている。
対岸へ渡す鎖は、昨日の熱で半分が使えなくなっていた。
そこで、壊れた三脚の脚を二本、岩壁へ打ち込んだ。一本目を足場にし、二本目へ鎖を掛ける。
治療器具としては失敗した鉄も、橋の杭ならまだ働ける。
「捨てなくてよかった」
『何をしている』
「失敗を再雇用しています」
『余の口内を廃材置き場にするな』
鎖を渡り、黒い侵食部へ着く。
昨日、ヴァルドの爪が破った天井には、大きな亀裂が残っていた。そこから炎が漏れ、黒いものは、白い岩壁のさらに奥へ根を伸ばしている。
私は可動鏡を近づけた。
白い壁は、ヴァルドが息を吐くたび淡く光る。
黒いものだけが光らない。
炎に包まれても熱の色が変わらず、鏡の縁で触れると、金属でも石でもない乾いた音がした。
少なくとも、牙と同じものには見えない。
「昨日、これを虫歯ごと削ろうとしました」
『反省なら外でせよ』
「今しています。だから今日は、黒いものだけ取ります」
鱗を組み込んだ器具を立てる。
三本の脚は細く、押せばしなって元へ戻る。中心には刃ではなく、輪にした鉤を通してあった。
黒いものを切るのではない。
根元へ輪を掛け、引き抜く。
「触れます」
『やれ』
「痛んだら三回です」
『わかっておる』
手回し輪を半回転させる。
鉤が黒い根の脇へ入った。
命綱が三度、強く引かれた。
私は手を止める。
洞窟の炎が膨らみかけ、そのまま細くなった。
ヴァルドが、息を止めずに耐えたのだ。
「右目の奥ですか」
『……そうだ』
「では、角度を下へ変えます」
昨日なら、顎が動いた幅だけを記録していただろう。
今は、痛みが走った場所から、黒い根が歯のどこへ絡んでいるのかを考えられる。
鉤を一度抜き、下側から入れ直した。
「もう一度」
返事の代わりに、命綱が一度引かれた。
進め、ということらしい。
「勝手に合図を増やさないでください」
『三回でなければ止まるな』
「はいはい」
輪が黒い根元へ掛かった。
ゆっくり締める。
黒いものが震えた。
火山洞窟の奥から、昨日より大きな炎が押し寄せる。
ヴァルドの防御反応ではない。黒いものの周囲へ、火の流れが無理やり引き寄せられているように見えた。
「来ます!」
『続けろ!』
「息を合わせて! 四つで吐く!」
一つ。
二つ。
炎が岩棚へ届く。
三つ。
私は昨日溶けた脚を、器具の前へ倒した。
熱を受けた鉄が赤くなり、火の流れを左右へ分ける。治療には失敗した太い脚が、今度は盾になった。
四つ。
炎が引く。
その瞬間、手回し輪を両手で引いた。
黒いものが、白い壁から半分抜ける。
根の先には、細かな鉤が何本も生えていた。
偶然入り込んだものとは思えない形だった。
「自然にできた形じゃありません!」
『取れるか』
「取ります!」
器具の脚が横へしなる。
ヴァルドの顎が反射で動いたのだろう。それでも鱗の脚は折れず、輪だけを黒いものの根元へ残した。
命綱が二度引かれる。
確認の合図。
まだ続けろ、ということだ。
「王様のくせに、合図が雑!」
『工具屋のくせに、口が多い!』
私は足を岩へ踏ん張り、最後まで輪を引いた。
黒い異物が抜けた。
こちら側では、私の腕ほどの大きさがある。
用意していた耐熱布で包み、腰の工具鞄へ固く結びつけた。
洞窟の炎が消えた。
完全に、ではない。
荒れ狂っていた火が、炉の中で眠る炭火ほどへ落ち着いた。
白い岩壁には穴が残っている。
原因を取っても、削れた歯は戻らない。
「補修します」
『まだ何かする気か』
「穴を開けたまま帰る歯医者がいますか」
『貴様は工具屋だろう』
「今それを決めるのは私です」
鱗を削ったときに残しておいた薄片を取り出す。
母の革箱に残っていた接合材を練り直し、まず黒いものを抜いた穴へ薄片を重ねた。
昨日、ヴァルドの爪が走らせた天井の亀裂にも、残りの薄片と接合材を沿わせる。
ヴァルドの炎を、一呼吸だけ流してもらう。
鱗の薄片は白い壁へなじみ、黒鉄色の小さな補強となって固まった。
国土へつながる光が、補修した部分にも途切れず流れ始める。
遠くで、三つの山が長く息を吐いた。
噴火の音ではない。
溜め込んでいた熱を、空へ逃がす音だった。
「終わりました」
返事がない。
「ヴァルド?」
『……聞こえておる』
「寝ないでください。私を引き上げる仕事が残ってます」
『患者へ働かせる歯医者がどこにいる』
「ここです」
命綱が、今度はゆっくり引かれた。
入口の輪へ近づくと、引く速さがさらに半分になった。
昨日ぶつけた肩を、覚えていたらしい。指摘すれば「任務に支障が出る」と言うに決まっている。
入口の輪を越えると、私は工具店の床へ尻もちをついた。
腰へ結んでいた包みが、境目を越えた瞬間に軽くなる。
布を開くと、腕ほどあった黒い異物は、親指の爪ほどの欠片へ縮んでいた。
ヴァルドも、椅子の背へ身体を預けている。ひどい顔色だが、犬歯から赤い光は漏れていない。
鎧戸の外が明るくなった。
灰の雲が割れ、朝日が町へ差し込んでいる。避難の鐘も止まっていた。
私は黒い異物を布ごと小瓶へ入れた。
「見たことのある材料ですか」
「ない」
「自然にできた形ではありません」
「誰かが余の牙へ入れたと言うか」
「まだ断定はしません。でも、作った跡があります」
ヴァルドは小瓶を見たあと、私へ視線を移した。
「エルナなら、すぐ犯人を追った」
「私は母じゃありません」
「そのようだ」
その言葉を口にしたときだけ、ヴァルドは小瓶ではなく、私の顔を見ていた。
腹を立てるべき言葉なのに、ヴァルドの声には失望がなかった。
「工具屋」
「リタです」
「リタ」
初めて、名前を呼ばれた。
「余の歯を治した以上、途中で仕事を放り出すことは許さぬ。この異物の出所を調べよ」
「また命令ですか」
「依頼だ。報酬は払う」
「鱗も?」
「二度とやらぬ」
即答だった。
その日の昼、灰に覆われた町には不釣り合いな、鮮やかな緑の葉が一枚、壊れた店の窓から飛び込んできた。
葉の表面には、硝子のように透明な歯が映っている。
中央に細いひび。
その奥で、黒い影が動いた。
ヴァルドが、私の手元をのぞき込む。
「休む暇はなさそうだな、歯医者」
工具屋ではなく、歯医者。
訂正してやろうと思ったのに、言葉が出なかった。
代わりに私は、小瓶の黒い欠片と、葉に映る黒い影を見比べた。
一本の虫歯は治った。
けれど、黒い異物は、どうやらこれ一つではなかった。




