第9話 竜王は、守るときほど危ない
竜王が怒ると、空気が熱くなる。
これは知っていた。
知らなかったのは、怒りの原因を焼き終えても、熱が止まらないことだった。
「下がれ」
ヴァルドが私の前へ出た。
人の姿のまま、右腕だけが黒鉄色の鱗に覆われる。
床を突き破った白い枝が、槍のように曲がった。先端は私ではなく、入口の輪へ向いている。
「壊さないで! 患者の防御反応です!」
「わかっておる」
答えながら、ヴァルドは枝をつかんだ。
赤い火が右腕から走る。
枝は一瞬で炭になった。
寝殿の壁が割れ、二本目、三本目が入ってくる。窓の外では、塔を囲む森そのものがこちらへ身を乗り出していた。
ノエが両手を床へつく。
「鎮まりなさい! 敵ではありません!」
枝の表面に霜が広がる。
けれど、次の瞬間には夏の熱で溶けた。
アステルの四季は、命令を聞ける状態ではない。
ヴァルドが一歩進む。
床板が、足の形に黒く焦げた。
「ヴァルド、入口の輪だけ守ってください!」
「余へ指図するな」
「必要な手順です!」
「ならば、黙って伏せていろ」
炎が寝殿を横切った。
迫っていた枝だけを焼き、壁の手前で細くなる。火の扱いは正確だった。
少なくとも、最初は。
枝が止まった。
森が、竜王を避けるように塔から離れていく。
もう、燃やす相手はいない。
それでもヴァルドの腕から、赤い光は消えなかった。
「陛下、森が退いています!」
ノエが叫ぶ。
「また伸びる」
「今は止まっています!」
「根まで焼けば、二度と伸びぬ」
ヴァルドは会話ができている。
私が誰かも、ここがどこかもわかっている。
理性を失ったわけではない。
危険が残っているという判断だけが、森が退いても変わらない。
だから、窓の外で火の線が広がり続ける。
春の若葉が燃え、夏の枝が乾き、秋の葉が火の粉になった。冬の雪だけが一瞬耐えて、湯気へ変わる。
塔の向こうまで焼けば、精霊王の国土を守るものがなくなる。
その熱に引かれ、入口の輪の奥で黒い根が太くなった。
「やめて!」
ヴァルドは振り向かない。
私の頬から落ちた血が、床で乾いている。
彼がそれを見てから、火は強くなった。
守ろうとしている。
私を。
だから、必要なところで止まれない。
腰の短い鉤綱を抜き、ヴァルドの左腕へ巻きつけた。
一度。
二度。
三度、強く引く。
「止まってください!」
「危険は残っておる」
「三回は止まる合図でしょう!」
「あれは治療中の合図だ」
「今、一番治療が必要なのはあなたです!」
ヴァルドの金色の目が、ようやくこちらを向いた。
赤い光が混じっている。
怒りだけで変わった色ではない。
竜の力が、瞳まであふれていた。
「私はここです」
綱を、もう一度引いた。
「あなたの後ろにいる。もう、枝は私へ届いてません」
「また来る」
「来たら、そのとき必要な分だけ焼いてください。今の火は、アステル陛下の痛みを増やしてる」
寝台の上で、アステルの身体が震えた。
残った三枚の葉は、すべて縁から焦げ始めている。
「守る相手を、間違えないで」
ヴァルドの右手が開いた。
炎が細くなる。
すぐには消えなかった。
窓枠。床。私の血。寝台。入口の輪。
確かめるように一つずつ見て、最後にアステルへ視線を止める。
赤い光が消えた。
静かになった寝殿には、焦げた木と冬の湿気が混じった、ひどい匂いが残った。
「……余は、必要な処置をした」
「必要な範囲の三倍くらいです」
「二倍だ」
「そこ、交渉するところですか」
ノエは笑わなかった。
当然である。
塔の壁は片側が崩れ、その向こうに黒く焼けた森が見えていた。
「竜王陛下」
「賠償はする」
「金で季節は戻りません」
「余の国から土と職人を送る」
「職人は、工具店にも一人います」
私が口を挟むと、二人が同時にこちらを見た。
「今は森より歯です。古い支えが外れたら、どちらも戻せなくなる」
作業台代わりの机へ、持ってきた金具を並べる。
四本の黒い根は、一度に抜けない。
母の器具は、もう片側しか残っていない。
必要なのは、ひびを先に支える新しい器具と、四本を別々に扱う鉤だった。
新しい支えへひびの重みを移してからでなければ、母の器具には触れない。
輪状の留め具に使った予備の金具を四つに分ける。可動鏡の替え軸を横木にし、四本がそれぞれ動く小さな腕を作る。
ただし、金属だけでは精霊王の歯へなじまない。
「ノエさん。陛下の葉を四枚、いただけますか」
「先ほど一枚使ったでしょう」
「四つの季節へ一本ずつ必要です」
「陛下のお力を、これ以上――」
「嫌なら渡さないはずです。本人に聞いてください」
ノエは寝台へ向いた。
焦げかけた三枚の葉の隣で、新しい芽が伸びる。
芽は、春、夏、秋、冬の葉を一枚ずつ開いた。
四枚とも自分から枝を離れる。
一枚はノエの掌へ落ち、残る三枚は私の作業台へ落ちた。
ノエは掌の一枚を見つめた。
それから、自分の判断で残りの三枚へ並べた。
「……陛下は、あなたに使えと」
「では使います。切った葉は戻せません。でも、根元を残せば、陛下が休んだあとに生え直します」
葉脈を細く裂き、四つの腕へ巻く。
春は、柔らかく伸びる。
夏は、熱を受けても弱らない。
秋は、引く力へ粘る。
冬は、形を固く保つ。
同じ葉でも、働きが違う。
「外から、痛みを教えてください」
私はノエへ命綱を差し出した。
彼女は受け取らなかった。
「竜王陛下ではなく、私に?」
「ヴァルドは、今は火を冷ます仕事があります」
「余は平静だ」
「床に足跡が焼きついてます」
ヴァルドが黙った。
「ノエさんは、陛下の四季を知ってる。葉の変化を見て、春、夏、秋、冬の順で、短く綱を引いてください。危険なら、強く引いたまま離さないで」
短く一回から四回で、季節を知らせる。
強く引き続けたら、作業停止。
回数と引く長さが違えば、秋の三回と停止を取り違えない。
「確認できたのは、陛下があなたへ葉を渡したことです。あなたが安全だという証拠にはなりません」
「私もです」
ノエの眉が上がった。
「でも、アステル陛下は二人とも使う気みたいです」
寝台から細い蔓が伸び、私とノエの手首を一周ずつ結んだ。
ノエはようやく、綱を取った。
床の鉄輪でも、竜王でもない。
三か月前なら、絶対に預けなかった相手だった。
「必ず戻りなさい」
「引くのが遅くなければ」
「強く引き続けたら、今度こそ止まりなさい」
まったく信用されていない。
条件としては、お互い様だった。
私は新しい四本腕の器具を工具鞄へ入れ、入口の輪をくぐった。
森の中央で、母の古い器具が音を立てる。
残った片側の爪が、今にも白い壁から抜けようとしていた。




