第10話 四つの痛みを、一本ずつ
母の器具の、残った爪が半分ほど抜けた。
透明なひびが左右へ開く。
間に合わない。
そう思うより先に、私は新しい器具をひびへ押し込んだ。
四本の腕のうち、冬の葉を巻いた一本を立てる。硬く縮んだ葉脈が白い壁へ噛み、横木を支えた。
ひびが止まる。
完全には閉じていない。
けれど、母の道具一つへ預けていた重みの半分を、新しい器具が受け取った。
「まだ働けますか」
片側だけになった古い器具へ、小さく聞いた。
丸い鏡が震える。
光を返し、黒い根の一本を映した。
「では、もう少しだけ」
私は古い横木へ新しい横木を重ねた。
十年前の道具を捨てて交換するのではない。
支えを分けてもらう。
命綱が短く一度、引かれた。
春。
ノエからの合図だった。
短い一度から四度は、春から冬の痛み。強く引いたままなら停止。
入口をくぐる前に決めた合図である。
黒い根のうち、若葉を増やす一本へ可動鏡を向けた。
切れば増える。
だから、切らない。
春の葉を巻いた腕を根元へ沿わせ、伸びる方向へ一緒に曲げる。黒い根は逃げようとして枝を増やしたが、そのたび柔らかな腕へ巻きついた。
増えた分まで、一つの束になる。
「アステル陛下、触れます」
足元の若葉が、一枚だけ開いた。
進め、という返事だ。
腕の輪を締め、根をゆっくり引いた。
森じゅうの花が開く。
春の痛みが、成長する力へ流れたように見えた。
根が一本、抜ける。
花びらが静かに落ちた。
次は、短く二度。
夏。
黒い根が光を吸い、周囲の空気を熱くしている。火山洞窟で見たものと似ていた。
熱に強い夏の腕を近づけると、根はさらに周囲の熱を引き寄せた。
このままでは器具ごと焼かれる。
私は、ひびを支えたままの冬の腕から、葉脈の端だけを横へ広げた。
白い霜が薄い板となり、熱の流れを二つに割る。その影から夏の腕を回し、根元だけをつかんだ。
竜王の治療で、溶けた脚を炎避けにしたのと同じだ。
違う患者でも、失敗は働ける。
「二本目」
息を吐きながら引く。
根が抜け、蝉の声が遠ざかった。
短く三度。
秋。
秋の根は、落ち葉の下へ色を変えて隠れていた。
可動鏡を寝かせる。
赤、黄、茶。
どの葉も光を透かすのに、一本の葉脈だけが黒い影を落としている。
秋の腕を、落ち葉の下へ滑らせた。
粘りのある葉脈が、見えない根を逃がさずつかむ。
三本目が抜ける。
森の赤が、柔らかな金色へ薄まった。
残りは、冬だった。
合図は来ない。
「ノエさん?」
返事の代わりに、命綱が強く引かれ、そのまま張りつめた。
停止。
私は手を離した。
黒い根の中心が脈打つ。
冬の土が割れ、その下から黒い塊が持ち上がった。四本の根を束ねていた本体だ。
三本を失い、最後の一本から精霊王の力をまとめて吸おうとしている。
外へ続く綱が、さらに強く張った。
引き戻される。
私は逆らわず、入口へ身体を向けて一歩だけ下がった。
その途端、冬の根が新しい支えへ絡みつく。
ここで器具を畳んで帰れば、黒い本体は支えごとひびを引き抜く。
輪へ手を戻さないまま、黒い本体を見る。
三か月前は、患者へ確かめず、道具の数字だけで刃を進めた。
今は違う。
続けるかを決めるのは、私一人ではない。
「アステル陛下。最後の根は、ひびの支えと重なっています」
声が届いているかはわからない。
「抜く間だけ、あなた自身に支えてほしい。できますか」
森は動かない。
雪が降る。
一枚。二枚。
やがて、私の足元から小さな芽が出た。
芽は新しい器具の横木へ巻きつき、透明なひびの両側へ根を張った。
患者本人の返事だった。
ただし、この芽が支えられるのは、アステルが意識を向けている間だけだ。
黒い物をつかむことも、ひびの重みを長く受け続けることもできない。
治療器具の代わりではない。
今だけ、患者自身が治療を支えてくれる。
外へ続く綱の張りが、ゆっくり緩んだ。
ノエにも、芽が見えたらしい。
「では、お願いします」
冬の腕を支えから外し、黒い根へ掛ける。
ひびを押さえるのは、母の残した片爪、新しい横木、アステルの芽。
一人分ではない。
三つの支えがそろっている。
黒い本体が震えた。
四季が一度に押し寄せる。
花びらが吹雪に凍り、熱風で溶け、赤い葉となって視界を塞いだ。
私は目を閉じなかった。
丸い鏡の中だけを見る。
黒い根は季節ごとに形を変えても、鏡へ光を返さない。
「そこです」
輪を根元へ落とす。
締める。
引く。
抜けない。
足元の芽が、横木へもう一度巻きついた。
両足を透明な地面へ押しつける。
工具鞄が肩へ食い込む。頬の傷が熱い。
春の腕が根を束ね、夏の腕が熱を逃がし、秋の腕が滑りを止める。冬の腕が、最後の根を折らずに形を保つ。
四本とも、別の働きをしていた。
私は手回し輪を最後まで引いた。
黒い本体が抜ける。
森から、音が消えた。
黒い根を外した四本の腕を、ひびの両側へ開き直す。
次の瞬間、透明なひびへ淡い光が流れた。
一時的に支えていた芽が横木からほどける。
代わりに歯の淡い光が新しい器具へ流れ込み、四枚の葉の先から春、夏、秋、冬の色が順番に巡った。
ひびの揺れが止まる。
補修は定着した。
役目を終えた母の器具が、私の掌へ落ちる。
「お疲れさま」
丸い鏡は割れていた。
それでも最後に一度だけ、私の顔を映した。
黒い異物は耐熱布で二重に包んで脇袋へ。
古い器具は工具鞄の内側へ。
別々に、しっかりと結ぶ。
入口の輪を越えると、ノエとヴァルドが二人がかりで私を引き上げた。
「自分で上がれます」
「停止の合図には、従いました」
「歯の中には残りました」
「撤退の合図とは聞いてません」
「その違いを、入る前に決めなさい」
「でも、季節の合図は一度も間違えませんでした」
ノエの言い方が、少しだけ私に似ていた。
固かった眉が、ほんの少しだけほどける。
寝台では、アステルが目を開けていた。
髪の先を、四つの色がゆっくり順番に巡っている。
「歯医者」
「はい」
「今度は、起きているときに来て」
「呼んでもらえれば」
ノエが目をそらした。
「次は、正式な書状を出します」
「荷物持ちではなく?」
「……歯医者として」
十分だった。
私は入口の輪から、最初に借りた若葉を外した。
アステルの手へ戻そうとすると、細い蔓が私の工具鞄を指す。
「報酬」
「追加請求しても?」
「焦げた森の修理代と相殺」
「燃やしたのは私じゃありません」
「では、竜王へ請求する」
髪の先は冬の銀だったのに、アステルの袖口の枝だけが若葉を一枚つけた。
笑っているらしい。
正しい相手を見ている。
私は若葉を湿らせた保存布に挟み、工具鞄の内蓋へ留めた。境界から外しても、春の色は消えなかった。
道具へ使えるかは、店に戻ってから調べる。
ヴァルドが、預かっていた黒鉄色の縁材を差し出す。
「余の鱗も戻せ」
「返したくなったんですか」
「余の歯を次に診るとき、必要だろう」
入口の輪へ鱗を戻し、留め金を締めた。
工具鞄には精霊王の葉が増え、輪には竜王の鱗が戻った。
二人の王から預かったものが、ようやく同じ鞄へ収まった。




