第65話 王の喧嘩は、畑を選ばない
二日で浅瀬を通った麦は、荷車三台分にも満たなかった。
渡し場で運び手が交替するたび、東岸の兵が荷札を調べる。兵は邪魔をしたいわけではない。熱石の報告を受けた王宮から、越境する者を調べろという命令が来ていた。
白枝の子どもがその日の小麦粉を受け取った夕方、海から平底船が上ってきた。
舳先に立つセイルは、いつものように歯を見せて笑わなかった。川の水位を少しだけ押し上げ、浅瀬に乗り上げそうな船腹を浮かせている。積んでいるのは小麦粉と塩。武器ではない。
「止まれ!」
東岸の兵が声を上げる。船の後ろから、海王の旗を立てた護衛艇が現れた。
白枝の集落を守るアステルには、昨夜、西岸が兵を集めているという報告が届いていた。西岸には、精霊王が川を凍らせるという報告が届いた。どちらも、まだ起こっていないことだ。
アステルが岸へ来た。葉の冠には、春の芽と冬の霜が一緒についている。
「セイル。船だけ先に入れて。護衛は川で待って」
「粉が濡れる前に、そうしたい」
話は、そこまで進んだ。
西岸の見張り塔から早鐘が鳴る。川上の古い逃がし路で赤い蒸気が噴き、兵の足元へ石が跳ねた。誰かが「海王の船から火が出た」と叫んだ。
飛んできた槍を、ヴァルドが翼で弾いた。槍は水へ落ちたが、翼の風で護衛艇が傾く。セイルが潮を逆へ押し、船を戻す。その波が東岸の畑へ乗り上げた。
「やめて!」
私の声を、王の力が三つともかき消した。
アステルの霜が波を止める。凍った水に護衛艇の櫂が捕まる。ヴァルドが艇を守ろうとして氷を焼いた。炎は人を避けた。畑は避けられなかった。
若い麦が、端から黒くなる。
セイルがヴァルドを押し戻そうと、川を壁にした。水と火がぶつかり、蒸気の奥で竜の爪と海王の腕が一度だけ組み合う。アステルが二人の間へ木を伸ばし、岸の兵を退かせた。
誰も宣戦の文を読んでいない。それでも、王同士が力をぶつけた。東西の兵が互いへ矢を放つ。流れ矢が粉袋を破り、白い粉が泥へ流れた。
私はネッサと一緒に岸の子どもを倉へ入れた。最後の子が戸をくぐる寸前、屋根瓦が落ちる。ヴァルドが身体を寄せ、瓦を翼で受けた。
その翼へ、矢が三本刺さった。
彼は子どもを見た。私を見た。矢を放った兵のいる土手を見た。
金色の目の奥へ、赤い光が走る。
「皆、下がれ」
声は落ち着いていた。だから、怖かった。
兵が弓を捨てても、彼の喉に集まる熱は減らない。敵が撤退した後も、彼は土手の向こうを見つめていた。そこには兵舎と、まだ収穫できない畑がある。
私はネッサへ赤い布を渡した。
「彼だけじゃなく、向こうの王たちへも。止まるまで振って」
赤い布が高く上がった。その下で、白い粉は泥に溶けていた。




