第60話 一台を動かす手
デルクは、落ちかけた空箱を拾わなかった。
「馬を先に外せ。右輪が割れたら荷台が前へ落ちる」
御者が縄を解き、馬を離した。ヴァルドは荷台の端を支えたままだ。
「上げてよいか」
「まだ」
デルクは私へではなく、御者へ尋ねた。
「この車輪、帰りの麦を載せる予定だったな。軸を替えるまで、荷は諦められるか」
「橋まで来たのに?」
「載せれば、橋へ着く前に折れる」
御者は東岸へ積まれた麦のほうを見て、うなずいた。声にするまで、少し時間がかかった。
デルクは荷台の下へ短い木を二本差し、浮いた右輪の負担を地面へ逃がした。荷を増やす修理ではない。車をここから引き戻せるようにするための支えだ。私が箱を一つずつ降ろすと、軸の裂け目がこれ以上開かなくなった。
「持ち上げていい」
ヴァルドがほんの少し力を入れる。左輪がぬかるみを離れ、板の上へ戻った。
助かった、と御者が言う。デルクは返事の代わりに、輪の下へ入れた板を足で押して確かめた。
「走らせるのは空で、修理場までだ」
私も同じ判断だった。悔しくはない。私は手が届かない位置にある亀裂を、デルクは一目で見つけた。
橋番が、彼の石灰色の上着を見た。
「王なき工房の者だな。あの箱のために来たのか」
「箱のために来た。目の前の車を放っておく理由にはならない」
デルクは逃げずに答えた。父の継ぎ枠を積んだ、黒い布の角に白い糸が一本ある箱は、輸送所の保管庫で封をしたままだ。橋へ付ける許可は、どちらの岸からも出ていない。
「橋は直せるのか」
「重い車輪を通すなら、座石を据え直す。今夜は無理だ」
デルクは川側の石へ降り、浮いた楔の下へ細い木片を当てた。石灰の粉が落ちる。橋番が腕を伸ばしかけた。
「勝手に打つなよ」
「打たない。軽い荷の逃げ道を見ている」
彼は私の可動鏡を借り、木片の先がどこへ当たるか確認した。借りる前に一応、「使うぞ」と聞いた。獣王の牙では、それがなかった。こんなところで学習しているらしい。都合のいい部分だけでも、学習は学習だ。
橋番とネッサが、細い手押し台車を持ってきた。大人一人で押せる幅だ。麦袋二つなら載る。橋の端へ置いたウインチで引き戻せるが、私は回してみて手を止めた。
「引くときは止まるのに、戻すと爪が掛かりません」
「古い爪だからな」と橋番が言う。
「橋の上で止める合図が出たら、こちらへ戻せない」
私は工具箱から短い薄板を出し、爪の後ろへ挟んだ。逆回転でも引っ掛かる角度まで削る。デルクがウインチの軸を押さえ、橋番が空の台車で試す。行き、止まり、戻り。三度目は麦袋一つの重りを載せた。
白墨線は動かない。橋番が膝をついて座石を見た。
「二袋ずつなら、日があるうちだけ通す。向こうも監視役を一人出せ」
「車を通せとは言わないんですね」
ネッサの言葉へ、デルクが肩をすくめた。
「今の座石には言えない」
私たちは両岸の橋番に手順を渡した。合図が一度でも出たら台車を引き戻す。白墨線が少しでもずれたら、その日は終わり。誰か一人が重いと思ったら、理由を聞く前に止める。
東岸の運び手が、最初の二袋を載せた。
ウインチが鳴る。ゆっくり、西岸へ来た。ネッサが受領を記し、次の二袋を待つ。ようやく、麦が向こう側からこちら側へ動いた。
ヴァルドは荷の列から、薬と粉の小箱を一つ預かった。橋の上を通す順番を待てない谷の診療小屋へ運ぶという。東岸の橋番の許可札を付け、飛び立った。
「余が往復すれば」
「診療小屋の分は助かる」とネッサが言った。「八台分の麦は台車と橋へ残る」
ヴァルドは大きな翼を一度だけ畳み、うなずいた。
その姿が尾根の向こうへ消えてから、デルクが輸送所のある南の道へ目を向けた。
「あれを使えば、荷車の道も戻せる」
さっきまで私と一緒にウインチを止めていた人の声だった。
「橋の腹から、両岸の力を受ける。王の歯一つに掛かる重さも下げられる。座石の据え直しまで待っている間に、白枝の倉は空になる」
「設計の見立ては聞きます。でも、ここにいる人の許可を抜いて取り付けません」
「王が許すまで待て、と?」
「王だけじゃありません。橋番、運び手、向こう岸の畑。受けになる人に何が起きるか、先に話して、止める権限を渡す」
デルクの目が、私の作った止め爪へ移った。
「二袋ずつで、何日持つ」
「数えます。その間に別の道も探します」
「数えている間に、足りなくなる人はいる」
「知っています。だから今も運んでる」
台車がもう一度、橋を渡ってきた。小さな麦袋が二つ。私はネッサと受取印を照合した。
デルクの言う不足は、本当だ。彼が今、一台を救い、二袋を通したのも本当だ。
その手で封を破っていいことにはならない。
川上で、短い雷のような音がした。雲は、朝から一枚も増えていなかった。




