第59話 止まったのは、港ではない
赤石橋を渡り返したとき、海王の名前が聞こえた。
「海の王が、麦を港で留めたんだろう」
荷車の列にいた男が言った。誰かが言い返す前に、別の誰かが「竜王が空を飛べるならいいよな」と続ける。
ヴァルドの爪先が、橋の石を一度打った。
「待ってください」
「余は何も言っておらぬ」
「言う前にです」
彼は口を閉じた。私もすぐには男へ向かわなかった。白枝の小さなパンを見たばかりで、荷車の隣に立って怒る人へ、知らないでしょうと返せるほど余裕はない。
輸送所の机には、ネッサが帳面を三冊広げていた。
「白枝へ行ってきました」
「今朝、粉二袋。受取の印、届いた」
「海王の荷が止まっているって聞きました」
ネッサは一番薄い帳面を私へ向けた。
「港の出荷控え。マレナの字です」
二日前の潮の時刻と、荷を出した岸の名。八台分の穀物が一台ずつ記されている。最後には、荷車の封に使った紐の色まであった。
「予定は十四台だったんですか」
「収穫が戻らないぶん、港で集められたのは八台。足りない六台は、出していない。そこは本当」
次の帳面は、輸送所の出発簿だった。今朝、空車八台。橋の向こうで穀物を積むはずが、門前で引き返している。戻ったのも八台、積荷はゼロ。
マレナは海の流れを見る人だ。私が赤石橋の石を知らないのと同じで、麦をどの家へ渡すかまでは決められない。それでも、港から荷が出たことと、ここから取りに行った車が空で帰ったことは、別々に確かめられる。
「麦は、どこまで来ていますか」
「精霊王領側の橋頭に、八台分。東岸の受領札は今、橋番が持っている。封の色と数を一緒に確かめる」
「食べ物を八台分も置いたまま?」
ネッサは返答の代わりに、橋の点検札を渡した。
橋の西側、荷重を受ける座石が二本の指の幅ほど下がっている。昨夜の定時点検では一枚の指にも満たなかった。車輪が通ると継ぎ目が開く。人と背負い荷は、一人ずつ、橋番が見て通す。荷車は不可。
父の工房から来た継ぎ枠の箱も、輸送所側で別の封を掛けている。
「昨日の警告で止めた箱が原因かは、まだ分かりません」
「そう。箱を開ける前から橋は下がっていた可能性もある。まず現物を見る」
ネッサの指先には、橋頭で使ったらしい赤い石粉が付いていた。
私たちは両岸の橋番と一緒に、荷車が戻った場所へ行った。東岸に積まれた袋の封は、マレナの控えにある色と一致した。八台分のうち、白枝へ緊急に振り替えた二袋には、ネッサと東岸の橋番の印が並ぶ。残りは山側の五村が買った麦で、輸送所側へ入った袋は一つもない。
橋の石は赤く、継ぎ目の間だけ白い。古い石灰が荷重で砕け、靴の下で細かく鳴った。
橋番が巻尺を渡す。
「今朝がこの線。昼がこっち」
白墨線はずれていなかった。沈みは止まっているのかもしれない。私は膝をつき、可動鏡を石の下へ差した。
歯の奥を見るために作った鏡が、今は橋の裏を映す。斜めに入った古い楔と、その脇にできた空きが見えた。幅を測る針は持っている。でも、橋の安全を決めるのは私ではない。
「楔の横が浮いてます」
「見えたか。川側からは手が届かん」
橋番が腹ばいになり、私の鏡を借りて確かめた。彼は同じ場所を見て、顔をしかめる。
「このまま荷車を入れると、車輪が座石へ乗るたび楔が外へ逃げる」
「じゃあ、止めた判断は」
「正しい。修理する前に通す判断は、まだできん」
海王の歯へ入るとき、マレナは左右の縄を引いてから私へ渡した。あの人なら、きっとこの橋も逆から押す。私は橋番へ鏡を返してもらい、川の向こうの支えを見た。向こう側は白墨線が揃っている。危ないのは橋全体ではなく、西の座石へ重い車輪が乗る瞬間だ。
「歩いて運べる分は?」
「人の背で、一列ずつ。今朝から少しずつ通している」
ヴァルドの粉二袋だけではなかった。橋番は背負い荷をいくつか渡している。でも八台の穀物を人の背で渡し終えるまで、向こうの家が待てるとは思えない。
空の荷車の列へ戻ると、さっきの男がまだいた。荷台へ腰を掛け、腕を組んでいる。
「海王が止めたんじゃありませんでした」
私は帳面の写しを見せた。
「港を出た八台分は、向こうの橋頭にあります。白枝へ二袋は緊急に回しました。十四台の予定が八台になったのも事実です。でも、残りをこちらへ動かせないのは、門と橋の座石です」
男は写しを一度見て、私へ返した。
「八台向こうにあるなら、腹が減る先はこっちだろう」
「はい」
言い返す言葉はなかった。間違った相手へ怒らないことと、食事が届くことは別だ。
そのとき、列の先頭で短い悲鳴が上がった。
橋へ入っていない荷車の左輪が、待機場所のぬかるみへ沈んでいた。馬はつながれたまま、荷台だけが斜めに傾く。積んだ空箱と橋の補修材がずれ、前へ倒れかけた。
ヴァルドが腕を伸ばす。私より早い。けれど、荷台を力任せに持ち上げれば、右輪の軸へ全部の重みが落ちる。
「そこは支えて、上げないで!」
馬を外す人、袋を降ろす人、車輪の下へ板を差す人が一斉に動いた。私は右輪の軸を見た。表面に、細い裂け目が走っている。
「この台は、橋を直しても走れません」
橋番が舌打ちした。東岸へ荷を取りに行く八台のうち、一台がさらに止まった。
列の後ろから、石灰色の作業上着が近づいてきた。
男は倒れた空箱ではなく、右輪の裂け目を見た。
「上げる前に、割れるほうを逃がせ」
デルクだった。




