第58話 青い麦は、食べられない
麦の穂は、きれいな青をしていた。
葉の先まで同じ色で、霜も焼け跡もない。風が渡るたび、畑が一斉に頭を下げる。精霊王アステルの四季が戻ったことは、この畑を見れば分かる。
畑の持ち主が差し出した穂を指で挟むと、まだ中身は柔らかかった。
「この先、何日で挽けますか」
畑の持ち主は私の指先を見て、答えた。
「晴れが続いても、ひと月は先だよ」
赤石橋の向こうにある白枝の集落へ、私は歩いて渡った。昨夜閉じた精霊王領側の門は、両岸の橋番が立ち会う間だけ、人を一人ずつ通している。荷車は止まったままだ。父の工房から北へ向かった継ぎ枠の荷も、輸送所で封を確かめるまで動かさないと決まった。
東岸の橋番から急ぎの荷だけを運ぶ許可をもらい、竜の姿のヴァルドが頭上を一度横切った。いつもより低い。私を見失わないためではなく、川上の雲と橋脚の位置を見ているのが分かった。
「王が治ったなら畑も治ったんだろう、と聞かれるよ」
畑の持ち主は青い穂を放した。
「治ったさ。今はちゃんと、今の季節に育ってる。去年の秋に採れなかった分は、今年の畑に埋まってないけどね」
私は返事を探した。歯のひびなら、残ったものを支える方法を考えられる。去年刈れなかった麦を、今年の穂から取り出す工具はない。
集落の倉には、袋が二段だけ積まれていた。倉番の女性が、私たちを中へ通してくれる。壁には三日前の数が炭で書かれ、下に今日の数が続いていた。減り方は一定ではない。昨日は赤石橋から来るはずの便を待って、年寄りの家へ渡す分を先に分けたのだという。
「今朝のパンは?」
「焼いたよ。小さくした」
女性は籠を持ち上げた。薄いパンが、子供の手のひらほどの大きさで並んでいる。一枚を半分に割って渡した家もある。
「橋頭に止まった麦から、今朝二袋だけ回してもらったよ。山側の五つの村が買った分だから、橋番とネッサが受取先を書き換えてくれた。勝手に残りを開けるわけにはいかない」
麦の粒はこの倉にある。でも粉に挽く手も時間も要る。今日の薄いパンには、まだならない。
隣の棚には種麦があった。食べる袋より、こちらのほうが多い。
「これを挽けば、今日の分は増えます」
言ったのは私ではない。倉にいた若い運び手だった。彼はすぐに目を伏せた。分かっていても、口に出さずにはいられなかったのだろう。
「増える。次の畑がなくなる」
倉番も怒らなかった。
私は二人の間で、口を開けずにいた。患者なら、今の痛みと先の危険を本人に話して選んでもらう。でもこの倉の患者は一人ではない。今日パンを食べたい子と、次の季節に畑を耕す人がいる。
戸口で爪が石を鳴らした。人の姿へ戻ったヴァルドが、縄で縛った木箱を両腕に抱えている。
「ネッサから預かった。薬、塩、粉を二袋」
「粉は何人分ですか」
「集落の三日分には足りぬ」
ちゃんと数えてきた答えだった。空を飛べば急ぎの箱は届く。それでも、橋の向こうに並ぶ荷車を背負って運べるわけではない。
倉番は粉の袋を受け取り、まず封と量を確かめた。礼はそのあとだった。
箱の底から、薬瓶を一本ずつ取り出す。割れていない。私は瓶を包んでいた薄い木枠の角が、倉の古い棚板へ引っ掛かるのを見た。
「ここ、直していいですか」
「倉の棚? 粉を入れるなら頼む」
倉番の許可を聞いてから、私は棚板を外した。釘を打ち直すほどの材料はない。手持ちの薄い革を二枚挟み、傾きだけを戻す。袋の重みが一か所に集まらず、奥まで載るようにするためだ。
ヴァルドが棚を持っていた。
「余が運んだ粉のために、余が棚か」
「あなたの粉じゃありません」
「余の腕は棚になったが」
「そっちは、今だけです」
倉番が笑った。笑いながら、粉袋を奥へ滑らせる。引っ掛からない。空いた手で、小さなパンの籠を持てた。
これで食料が増えるわけではなかった。届いた分を濡らしたり、床へ落としたりせずに渡せる。それだけの仕事だった。
倉番は帳面を開いた。薬と粉の受取を記し、種麦の欄へは触れない。
「赤石橋の向こうで止まっている荷も、いつか来るんだろうね」
私には、うなずけなかった。昨日、橋番へ警告を送ったのは私だ。その荷の中には、父の工房から来た継ぎ枠がある。通せばいいとも、全部止めればいいとも、まだ言えない。
「橋番と、何が通れないかを確かめてきます」
倉番は帳面を閉じた。
「じゃあ、橋のこちらにも伝えて。『もう少し待て』だけじゃ、鍋に入れるものを決められないから」
帰り道、青い麦が風に揺れた。
アステルの領地は、確かに治っている。そのことが、今朝のパンを大きくするわけではなかった。
赤石橋の向こうでは、荷車が一台も動いていなかった。




