第57話 橋を渡る前に知らせる
橋の図を持ち出すつもりはなかった。
父の机の上で、私は白い紙へ赤石橋の位置と時刻だけを写した。継ぎ枠の寸法は、父の仕事だ。止める場所と、そこへ荷が来る時間は、運び手の仕事になる。
「その紙を出せば、工事は潰される」
父は図の上へ手を置いた。大きな手だった。昔、私の玩具の車輪を拾ったのと同じ手だ。
「知らずに橋へ乗った人は、選べません」
「赤石橋の受けは私が確かめる。荷は止める」
「止める予定を、運び手へ伝えていないでしょう」
「夜のうちに伝える」
私は筆を止めた。
「今、私と一緒に伝えますか」
父は答えなかった。工房の奥で、水車が細く回っている。先日私が引いた白墨の線を、父はさっき確かめた。自分の仕事なら、ずれを見ずに流す人じゃない。
橋の向こうの人を、その線の外へ置いているだけだ。
「父さんが黙っていても、私は出します」
「お前の紙には、測り違いもある」
「だから、見たものと父さんから聞いたことを分けて書きます。間違いなら、現地で止めて直せる」
父は唇を結んだ。少しして、頁の端をめくり、荷の印を見せた。
「二つ目の木箱だ。黒い布の角に白い糸が一本ある。時刻が変わっても、品を取り違えないように」
警告のためなのか、私を試しているのか分からない。私は荷印を書き取った。ただし、その一行の脇へ「ローデンの説明」と記した。
「この控えも、もう一枚写します」
事故後の受け番号と、父が加工した日を記した頁。父は閉じた綴りを、再び開いた。
「原本は渡さない」
「さっきと同じです」
私が炭紙を重ねる間、ヴァルドは戸口に立っていた。炎の気配が一度だけ強くなる。母の道具から明け方の橋まで、工房の仕事を焼いてしまえば早いと、私も一瞬思った。
「焼かないで」
彼は私を見た。
「まだ何もしておらぬ」
「考えてました」
「……考えた」
ヴァルドは手を下ろした。
「どの紙を誰へ渡すかは、そなたが決めよ。余は外で道を守る」
父は二人を見比べた。竜王へ何か言いかけて、やめた。
昨日の写しから、事故記録の引き渡し欄、第十七号、母の絵の表裏をもう一組複写した。二次写しであることも欄外へ書く。今日写した移管紙も複写し、二組の包みへ添えた。絵と移管紙の原本は父の手元にあり、私は見た内容と日付、写せなかった箇所を書いた。最後に、赤石橋の予定時刻、箱の印、父が説明した施工中の道と畑の危険。
確かめられたこと、父の証言、私の見立て。それぞれの頭へ、線を引いた。
「お母さんの絵の原本も、第三者に見せてください」
「今ここからは出さない」
「断ったことも、書きます」
父は止めなかった。
工房を出ると、製粉所の秤の女の人が戸を閉めていた。私は水車の仮支えの白墨線を彼女へ確かめてもらい、ずれていないと聞いた。言わずにここを出るのが、妙に嫌だった。
山岳輸送所までの道で、ヴァルドは一度も急かさなかった。夕刻の閉所前、ネッサに頼んで運び手会の当番を同じ机へ呼んでもらう。
「これは告発状ですか」
当番が紙の束を見て聞いた。
「事故の調査は依頼します。先に、明け方の赤石橋です」
私は時刻と箱の印を示した。ネッサと当番が、出発表へ目を移す。
「橋を止めるなら、穀物便が重なります」
「だから出発前に知ってほしかった。工事を安全にできるかは、私には決められません」
ネッサは明け方の穀物便の札をいったん外した。当番は橋の見張り役へ走る者を選び、赤石橋の両岸へ同文の警告を持たせた。工事を許すか止めるか、それぞれの管理者へ判断を返す。私は父の仕事を、こちらの命令へ置き換えない。
もう一組の写しは、運び手会と輸送所がそれぞれ受領印を押した。そこから精霊王領のノエへも、別便で照会を出す。絵の原本と父の控えの原本をまだ照合していないこと、調査官の名を知らないことも書いた。
父のところへ戻って紙を取り上げても、もう間に合わない。
「娘さんの署名でいいんですね」
係が言った。
私はためらった。父の姓を名乗るのが嫌なのではない。その名で父を裁くつもりが、私にはまだなかった。
「リタ・アルデン。見たところまで、私の名前で」
署名を終えると、当番がひとつ目の封を持って走った。
ヴァルドは扉を押さえ、私と封がすれ違う場所を空けた。
「行くぞ」とも「よくやった」とも言わない。今はそれがありがたかった。
外で馬の足が止まった。夕便で穀物を迎えに出た運び手が、空の荷車を引いて戻ってくる。
「向こう岸が門を閉めた。精霊王領の季節の乱れを、こちらへ流したと言ってる」
「証拠は?」とネッサが聞く。
「知らないよ。小麦を渡さない、とは言われた」
アステルの四季は戻っている。それでも、遅れた麦が急に実るわけではない。そんなときに、誰かが土地の乱れを隣へ押しつけたと疑われていた。
父の継ぎ枠は、まだ橋に付いていない。
それでも小麦は、もうこちらへ来られなくなっていた。




