第56話 王を迂回する橋
父は次の頁を見せる代わりに、水車のほうへ私たちを連れ出した。
逃げたのかと思った。けれど父は、先日私が引いた白墨の線を確かめ、先に秤の女の人へ声をかけた。
「一刻だけ水を細くする。今の荷が挽き終わってからでいいか」
「その間は手で挽くよ。終わったら声をかけておくれ」
父は了承を待ってから、脇水路の小さな板を上げた。水車の音が低くなる。
「ここは、古い軸が全部を受けていた」
「今は枠へ分けています」
「お前がやった」
父は、私が借りた滑車の枠を指した。仮支えにすぎない。傷んだ軸受けを取り替えずに済むわけではない。
「王の歯も同じだ。国土の揺れも季節も、一人の身体に集まる。病めば、畑へ返る」
反論できない。私が診た王たちが、そうだった。
父は別の板を水路へ差し、車輪を通らない細い流れを作った。水が二手へ分かれる。
「王の歯から土地へ向かう力を、国境の中継点へ回す。先でまた小さく分ける。王が寝ても、土地は急に倒れない」
水車は遅くなったが、止まらない。畑のほうへ向かう溝にも水が残る。
「本当にできるなら、助かる人はいます」
「助かる。それを十年前から言っている」
父の手が、二枚目の板へ伸びた。
「待って。そっちはまだ受けがありません」
「見るだけだ」
細い水路の出口には、古い石の縁しかなかった。父が板を少し傾けると、水はそこへ集まり、泥を削った。私はしゃがみ込んで板を戻した。
秤の女の人が、挽き終わった粉袋を抱えて角を曲がった。父はすぐ泥の筋へ木片を当て、袋の置き場へ水が行かないよう流れを切った。
「ここ、濡らしたら売れないんだよ」
「分かっている。試して悪かった」
父が止めたのは、目の前にある一袋だった。
白墨の線がずれている。
「これで、石が動きました」
「だから実物には、先に受けを置く」
「受けがずれたら」
「戻すための板もある」
「戻すまで、誰の畑へ流れるんですか」
父は水面から目を上げた。
「短い間なら、上手側の畑へ余計な冷えが出る。道も一時閉じるだろう」
「今、収穫が遅れている土地です」
「知っている」
知っているのに、その声は揺れなかった。
父は工房へ戻り、今度は自分から綴りを開いた。設置する橋の図がある。山岳輸送所から北へ向かう道の、赤石橋。
「両岸の王領を分ける古い境界石が、橋脚の下で接している。季節が変わると、橋脚の片側だけ凍る」
「それが、力の通り道だと?」
「私はそう測った。だから橋の腹に受けを置ける」
父の測りが正しければ、王の歯を通る流れへ国境から手を入れられる。少なくとも、父以外がこの橋脚を確かめた記録は見せられていない。
図では橋の腹へ継ぎ枠を付け、旧い流れを先に絞ってから受けへ渡す。私の目が止まったところへ、父の指が来た。
「ここは一度に締めない。お前が鉱王の歯でやったのと同じだ」
「私の仕事を知ったのは、先日見せた写しからだけでしょう」
「寸法がそう言っている」
褒められたかったはずの腕を、父の図から引き離したくなった。
「誰が止めるんですか。橋の向こうの人も」
「現場に停止板を渡す。私も立つ」
「橋を渡る荷車には?」
「施工の間、止める」
「何時から」
父の指が頁をめくった。輸送所の出発表と似た時刻が並ぶ。明け方、穀物便が山を下りる時間に、赤石橋への継ぎ枠を運び込む予定だ。
「その便、聞いてません。昨日、輸送所でも」
「工房の荷として通す。現地の監督には設置前に伝える」
「運び手は、橋へ着いてから知るんですか」
父は答えを少し遅らせた。
「先に知らせれば、止められる。王の歯へ戻す道しか認めない者もいる」
「そりゃ止めますよ。自分の荷と畑が、試す間の受けになるなら」
ヴァルドが頁を覗き込む。父は隠さなかった。
「余が各地を一人で支えられぬのは事実だ。余の命で土地を戻せるとも言わぬ」
そこで一度、彼の声が切れた。
「だが、余の歯を理由に民の道を黙って塞ぐな」
「王に知らせてからでは、工事は進まない」
「余ではない。橋を使う者へ言え、と申した」
父の視線が、私へ移った。
「来てくれ。お前が受けを見れば、失敗を減らせる。設置が終わったら、荷も通す」
私は図の端に置かれた母の古い受け番号を見た。十年前の道具から、今の橋へ続く線がある。でもそれは、父の仕事を私まで受け継ぐ理由にはならない。
「私が直したいのは、失敗したあとだけじゃありません」
父は頁を閉じなかった。
明け方まで、まだ時間はある。橋を使う人たちが知らないままなら、その時間は父のものだけだ。




