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竜王の歯医者ですが、虫歯一本がダンジョンになっています  作者: sakumaaa
第七章 父の工房

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第54話 切られた綱の、外側

「知っていて、あの日、何をしたんですか」


 父は母の図を見たまま、すぐには答えなかった。


 外では水車が一周するたび、木の受けが小さく鳴る。白墨の線はずれていないはずだ。それでも私は、机の上の紙より先に音の数を数えそうになった。


「まず、これを作った」


 父は図の脇、母が『外側の支えを先に』と書いた箇所へ指を置いた。


「ひびの両側をつかむ器具だ。釘へ触れずに荷重だけ逃がせるよう、爪の幅を変えた」

「先代の歯で十年残っていた、あの器具ですか」

「原形は。エルナが現場で直した分もある」


 父の手仕事を、私は見ていた。母の手仕事として、十年働き続けたものを。


「それを持って、塔へ?」

「処置の前日だ。私は境界の外の予備室にいた。足りない寸法が出たら削り直すために」

「黒い釘の絵を、ヴァルドには見せたんですか」


 父の指が止まった。


「見せていない」

「外で綱を持つ人には?」

「話していない。エルナと先王側は知っていた。治療する本人が説明することだと思った」


 私は記録紙へそのまま書いた。『父は、ヴァルドと外側の担当者には図を示さなかったと証言』。


「母が説明したかどうか、確かめましたか」

「いや」

「なら、誰が何を知って綱を持つか、父さんは確認してない」


 父は顔を上げた。


「エルナが自分で選んだ仕事だ」

「それと、外の人に危険を伝えることは別です」


 ヴァルドが席を立った。大きな手を机へ置いたが、紙には触れない。


「余は、エルナが中で黒いものを見つけたと聞いた。入る五日前に図を描いていたとは、今日初めて知った」

「知れば、推薦を取り消したか」


 父の問いに、ヴァルドはすぐ答えなかった。


「分からぬ。診察をやり直し、引き戻す条件を、エルナと先王と外にいる者で決めたはずだ。少なくとも、知らぬまま綱を持つことはなかった」


 私は記録を取る手を休めた。『はず』は過去を変えない。けれど、知らされなかった事実も消えない。


「事故が始まってからは?」


 父は椅子の背に手を掛けた。


「四季が一度に動いた。予備室の棚から器具が落ちた。私は入口の外へ出たが、内側は見えなかった。ヴァルドが綱を引いていた」


「そこから先は余が見た」


 ヴァルドの声は低かった。


「綱は張っていた。エルナを輪の外へ引く力は残っていた。あやつは、境界を閉じると言った。余が引き続ければ、内側の爪へ手が届かぬと」


 私は頷いた。その順番は、十年前の記録室で聞いた。母は綱を切っただけで境界を閉じたのではない。引き戻す力を断ち、自分で入口の輪の内側の爪を外し、境界を閉じた。


 ヴァルドには、爪を外す前に母を引き出すことができた。


 そうすれば母は外へ出られたかもしれない。同時に、開いたままの境界から、暴走した力が塔の外へ流れたかもしれない。どちらも、その場で確かめる時間はなかった。


「あなたは止めなかった?」


 私は父に聞いた。


「止められる距離ではなかった。エルナの声は聞いた。ヴァルドが綱を離す前に、切る音がした」

「距離のことじゃありません。その前に、別の支えを用意する話をしたかどうかです」


 父は母の図を見た。


「危険を測り直すべきだとは言わなかった。支えができれば処置へ進める、と私も思っていた」


 長い間、聞きたかったのは『父も知らなかった』という答えだったのかもしれない。


 違った。


 父は黒い物を知り、母のために器具を作り、必要な人へ図を渡さず、処置が始まるのを見送った。


 それだけで母を死なせたと断定はできない。母にも、先王にも、ヴァルドにも、その場で選んだことがある。黒い物を仕掛けた者と、後に記録を変えた者は、まだ分からない。


 でも、仕組みだけを悪者にして、父自身の選択を消すこともできなかった。


「母は、助けを求めなかったんですか」


 自分でも、変な問いだと思った。予備室に父がいた。入口にはヴァルドがいた。それでも、最後に内側の爪へ届く手は母の手だけだった。


「外側の支えを頼んでいる」


 父が図を示した。


「この紙も、私への依頼だ」


 私は母の字を読んだ。確かに一人で全部作った人の紙ではない。


「じゃあ、頼まれた側が全部応えたかは、別です」


 父は黙った。


 母が綱を切った理由は、母にしか完全には言えない。けれど、少なくとも入口を閉じるための行動だったことを、私はもう知っている。ひとりで死ぬための綱切りとして片づけたくなかった。『無謀』の三行にも、『英雄』の一語にも。


 私は紙を二枚広げた。


「図と、第十七号の票を写します。裏の便印も。原本はここから動かさないでください」

「写しで足りるのか」

「今日の確認には。原本を持ち出したら、次に父さんが『そんな物はなかった』と言っても、逆に私が作ったと言われても、同じ紙しか残りません」


 父は小さく息を吐き、帳面を開いたまま机を空けた。


 私は母の図を表裏とも写し、受付印の欠けた角、折り目、余白の傷も記した。第十七号は品目と数、日付、父の受領署名、続きの別紙番号まで写した。字の読めない箇所には空白を残し、想像で埋めない。


 ヴァルドは写しと原本を一枚ずつ見比べ、確認した範囲だけ署名した。父にも、写しが目の前の紙に対応することを署名してもらった。父の証言を真実だと認めた署名ではない。


 母の図と、父が綴じていた第十七号の票の現物は、父の工房に残った。私の鞄に入れたのは、二枚の表裏の写しと、今日聞いた言葉を分けて記した紙だけだ。


 製粉所を出るころ、水車はまだ低い速さで回っていた。秤の女の人へ白墨の線をもう一度確かめてもらい、ずれたら止める約束をした。父は工房の戸口で、私の鞄ではなく、空いた机を見ていた。


 輸送所へ戻り、ネッサに帰着を知らせた。父の紙の原本は父が保管し、私が写しを取ったことも記録する。写しを輸送所の封箱へ混ぜることはしなかった。由来が違う。


「次は何を照合する?」


 ネッサに聞かれ、私は第十七号の写しの末尾を見せた。事故の翌日に六点を回収し、調査へ渡した番号。その先には、別紙の番号だけがある。


「後でその道具を誰が受け取って、どこへ渡したか。別紙の署名を確かめます。父さんが受け取った一枚だけでは、その途中が抜けています」


 ネッサは連絡先を書く紙を一枚、私の前へ置いた。


 今夜は、まず宿へ戻る。明日、続きを追う。母の字も、父の署名も、鞄の中にあるのは写しだ。


 空白にした受取人の欄だけが、まだ私の手で埋められなかった。

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