第53話 五日前の黒い釘
翌朝、製粉所の水車は、昨日より遅く回っていた。
音だけで分かった。外側へ足した滑車の枠が揺れているのではない。水の量を絞っている。
工房へ入る前に、私は白墨の線を見た。昨日引いた二本の端は、まだ同じ位置にある。
「線はずれてないよ」
秤の女の人が、粉のついた手を払った。
「だけど、今朝来る麦が減ったんだってさ。急いで挽くほどないから、水も絞った」
彼女の机には輸送所からの荷札があった。白枝塔からの便は通れる。数が足りない。季節が戻った土地から新しい収穫が来るには、まだ待つしかない。
「父さんは?」
「奥。昔の帳面を出してる。埃でくしゃみをしない人間なんて初めて見たよ」
作業台には、昨日の薄板の削り屑が残っていた。父はそれを端へ寄せ、厚い帳面と細長い包みを並べていた。
「約束した紙だ」
「見せる前に、誰の物で、いつからここにあるか教えてください」
父の眉がほんの少し動く。
「私の保管だ。事故のあと、移動させていない」
「その言葉は父さんの証言ですね。紙と分けて書きます」
私は新しい記録紙の上へ、父の答えを一行目に書いた。ヴァルドが工房の入口から椅子を一つ運び、私の横ではなく、机の向かいへ置く。
「余は見た物と聞いた言葉を証する。それ以上の由来は証せぬ」
「それでいいです」
父はまず細長い包みを開けた。
紙の四隅が、手垢で柔らかくなっている。図は黒い細い棒と、歯の透明なひび。棒の根元から、短い影が四方へ延びていた。
私はすぐに指を置かなかった。先代精霊王の歯で見た、四本へ分かれた黒い根を思い出したからだ。似ている。けれど、十年後の形をそのまま写した絵ではない。
「この字は……お母さんの」
線の脇には、母の小さな字で、こうあった。
『処置前の鏡診。黒い釘状のもの、ひびの奥に既存。こちらの留めが触れる前からある。引けば四方の流れを同時に動かす恐れ。外側の支えを先に。爪の幅を狭めてほしい』
図の右上の日付は、塔の事故記録にある処置日の五日前だった。裏には白枝塔から工房へ出した便の受付印と、同じ日の時刻がある。母が必要な器具を父へ頼むため、塔から送った紙らしい。
私は裏表を交互に見た。
「日付も、文章も、母の手で書き換えられます。でも、便の受付は別の人の仕事です」
「塔の印だ」
「だから、塔の発送控えとも照合したい」
ヴァルドが紙の縁を覗く。
「エルナは、余に黒いものを見つけたと告げた。あれは処置中に初めて生じたものではなかったのか」
私は図の上の一語を、指で示した。
「『既存』。少なくとも母は、処置に入る前の診察で見ていた。母の処置で初めて黒い物が生じた、という見方とは合いません」
父は否定しなかった。
この紙だけで、誰が黒い釘を作り、いつ歯へ入れたかは分からない。母が危険をどこまで見積もれたかも、別の問題だ。それでも、私の胸の中で十年間引っかかっていた順番が、初めて紙の上で逆になった。
「父さんは、これをいつ受け取ったんですか」
「便が着いた日だ。事故の五日前」
父の返事は書き足した。紙の発送印とは違う欄へ。
次に、父が帳面を開いた。見開きの左は父の作業控え、右は綴じ込まれた引渡し票だった。端に通し番号がある。
「第十七号」
私は声に出した。票の上段には白枝塔の事故後の回収分として、鏡二本、留め具一組、手回し器具三本。精霊王の塔でノエと読んだ原事故記録の引渡し目録と、種類も数も一致する。欄の先には王都の調査へ渡すとあり、日付は事故の翌日だった。
「全器具回収不能、と書いてあったのに」
「それは、別の欄だ」
父の言い方が気に入らなかった。
「別の欄に書けば、両方本当になるんですか」
父は帳面から目を上げた。
「ならない。少なくとも六点は、数えて回収され、調査へ送られた」
私は目録の番号を記録し、紙の傷と朱の角印の欠けも控えた。鏡二本。留め具一組。手回し器具三本。父の受領控えによれば、母の短い柄はこの三本のうち一本に付いていた。海王の歯へ転用された軸は別部品だ。
「この票、父さんが作ったものでは?」
「調査の票を受け取って、控えとして綴じた。私は下の受領欄へ署名した」
右下に父の名があった。事故からしばらく後の日付だ。父の署名が示すのは、その日に父が票を受け取ったことまでだ。塔から調査へ運んだ人も、そのあと誰が一本ずつ分けたかも、この一枚では追えない。
紙をめくると、続きの移管欄は別紙番号だけが記されていた。調査側から工房へ品が移った順番は、別の帳面と合わせなければ見えない。
「そこも見せてください」
「今ここにあるのは、私の受領控えまでだ」
「じゃあ、あとで照合します。塔の原記録とも、輸送所の保管票とも」
父は帳面を閉じなかった。
私は短い柄を鞄から出し、票の品目の横へ置いた。昨日、父から私へ渡った物。事故翌日には王側が回収していた物。十年間の途中は、まだ空白のままだ。
ヴァルドが静かに言った。
「余が聞いたのは、あの場で黒いものを見つけたという報告だけだ。五日前のこの絵は知らなかった」
父は私ではなく、ヴァルドを見た。
「私は受け取っていた」
黒い物が前からあったことを、父は知っていた。
私が紙を置くと、母の図はまだ開いたままだった。今度は日付ではなく、父の顔を見た。
「知っていて、あの日、何をしたんですか」




