第51話 父の弟子には、戻らない
母の手回し柄は、私の鞄に収まった。
受け取った品の名と日付を控えに書き入れ、父にも確認してもらう。父は署名を済ませたあと、もう一度その布包みを見つめた。
「柄だけでは使えない」
「知ってます」
道具として、今すぐ使うためだけに引き取ったわけではなかった。
私は鞄の留め具を締めた。
外へ出る前に、秤の女の人がまた戻ってきた。今度は呼びかけず、入口で父の手が空くのを待っている。
「水車、見てもいいですか」
私が聞くと、父ではなく、彼女が頷いた。
「動くなら助かるけど、無理はしないでおくれ。昨日、一度軸が跳ねたんだ」
父が立ち上がった。
私は顔を向ける。
「直すかどうかは、見てからです」
「分かっている」
少しも分かっていなさそうな速さの返事だった。
製粉所の横へ回る。水は細い脇道へ流され、大きな車輪は止まっていた。軸を受ける木の片側が深く減っている。
父はその前にしゃがみ込んだ。
「ここを交換する。材料の届くのを待っているところだ」
「応急の支えは?」
「回せはする。だが、持たない」
父が置いていた薄板を持ち上げる。削った跡は滑らかで、寸法も合っている。ただ、古い受けの中へ入れるには薄かった。
そのままなら割れる。
私も同じ判断をした。
水車から少し離れたところに、使っていない小さな滑車が吊ってあった。
「あれ、外していいですか」
「荷を上げる物だよ。今日は使わない」
女の人の返事を聞き、私はヴァルドを見た。
彼は腕を組んだまま言った。
「今度は何を持てばよい」
「この端です。上げないで、重さだけ抜いてください」
「細かい注文だ」
文句を言いながら、言ったとおりにしてくれた。
私は滑車の頑丈な枠へ、父の作った薄板を重ねた。軸の荷重を傷んだ受け木だけに落とさず、外側の枠でも分散して受ける。恒久的に使えるものではない。新しい材料が届くまで、低速で回すための仮の支えだ。
父が留めの位置を指した。
「そこでは、引かれたときに回る」
「じゃあ、こっちにもう一本」
工具を渡しかけた父の手が止まった。
「使うか」
「使います」
私は受け取った。
父の道具を使ったからといって、父の答えまで受け取ったことにはならない。
固定を終え、手で軸を少し回してみる。傾きは減ったが、一周したところで枠が小さく揺れた。
父が押さえようとしたので、私は首を振った。
「人が押さえ続けないと動かないなら、駄目です」
「ここへ添えれば」
「それならお願いします」
彼は余った木片を削り、枠の下へ入れた。もう一度回す。揺れは止まった。
ヴァルドが手を離した。
軸は落ちなかった。
女の人に、水をほんの少しだけ戻してもらう。車輪がきしみ、ゆっくり動き始めた。最初の一回転は、全員で見た。
二回転目も。
父が口を開きかけ、閉じた。
「もっと速くできる、って言いたいですか」
「言っていない」
「私も少し思いました」
女の人が笑った。
「今日はこれで十分だよ」
私は枠の合わせ目へ、白墨で一本の線を引いた。もし位置がずれたら、線が食い違って目で分かる。異音がしたときもすぐに止めるよう伝え、水を脇道へ逃がす手順を一緒に確認した。
止まった。
動くところだけでなく、止まるところまで見て、ようやく手を離した。
父は、白墨の線を見ていた。
「誰に習った」
「いろんな人に」
ミラの顔が浮かんだ。マレナ、トルカ、ネッサ。名前を全部並べなくても、工具箱の中に少しずつ残っている。
「父さんから覚えたことも、使いました」
そう言うと、父はほんのわずかに笑った。
「なら、ここで」
「残りません」
私は遮った。
水車は、ゆっくり回っていた。父の薄板も、私が借りた枠も、一緒に働いている。
「役に立ったことは、なかったことにしません。でも、王様の歯が壊れると知ってて使う仕事は、手伝わない」
父の笑みが消えた。
「一人ずつ治しても、追いつかない」
「一人ずつ壊したら、追いつくんですか」
父は視線を水車へ戻した。
私もそちらを見た。仮の支えでは、この製粉所をいつまでも動かせない。材料を待ち、直し直し、人が見なければならない。
その面倒をなくす方法を、父は探しているのかもしれない。
だからといって、その途中で人がいなくなっていいとは思えなかった。
「私がどう直したか知りたいなら、患者さんに話していいか聞きます。そのあとで、私から説明します」
「条件を付けるのか」
「はい」
父はしばらく黙ってから、頷いた。
賛成した顔ではなかった。それでも、私の道具を勝手に開けようとはしなかった。
帰る前に、私は工房の机へ戻った。
「明日、記録の続きを見せてください。お母さんの道具を受け取ったところから」
「分かった」
「今日は、帰ります」
父の目がヴァルドへ移る。
私は先に鞄を持った。
「私が決めました」
ヴァルドは何も言わず、扉を開けた。
外には、まだ日が残っていた。夕刻の連絡に間に合うよう、近くの輸送所へ寄る。泊まる場所も、そこから頼めるという。
私は製粉所のほうを一度振り返った。
父は戸口に立っていた。手には何も持っていなかった。
歩き出してから、ヴァルドが尋ねた。
「腹は」
「空いてません」
返事をした直後、腹が鳴った。
今日も報告が早い。
「では、余に付き合え」
「何に?」
「夕食だ。一人で食うには多い物を頼む」
まだ注文してもいないくせに。
私は少しだけ歩幅を広げ、彼の隣へ並んだ。
鞄には母の道具が一つ増えた。
父の工房には、私の作った仮の支えが残った。
どちらも持ったまま、私は自分の泊まる場所へ帰った。




