第49話 父は、まだ物を直していた
父に会ったら、最初に何を言うべきか。
製粉所の扉が見える距離になっても、私は決められずにいた。
止まった水車の下を、細い水流がさらさらと抜けていく。壁には粉ではなく、修理を待つ道具が立てかけられていた。鍋、秤、荷車の軸。どれも、かつて工具店で見慣れた壊れ方ばかりだった。
ヴァルドは人の姿で隣を歩いていた。竜で降りるのは少し離れた場所にしてもらった。
「ここです」
「見えている」
私の足が不意に止まったのを、彼は急かそうとはしなかった。
開け放たれた扉の奥から、やすりをかける音が響いてくる。
しゃっ、しゃっ、しゃっ、と三度削り、さっと粉を一度払う。
工具の扱い方の癖なんて、似ている人間はいくらでもいるはずだ。
そう自分に言い聞かせてから、敷居をまたいだ。
作業台の前に、男がいた。
髪に灰色のものが増えている。肩は記憶より丸かった。けれど、部品を光へ向ける手の形は、何も変わっていなかった。
顔を確かめるより先に、その手を覚えていた。
男の手が、やすりを止める。
振り返り、私を見た。
私の名を呼ぶまでに、ほんの一呼吸の間があった。
「……リタ」
たったそれだけで、十年かけて積み上げてきた言葉が、すべて使えなくなってしまった。
作業台の脇には、小さな木の荷車があった。後ろの車輪だけ色が違う。
子供のころ、父が作ってくれたものに似ている。車輪を割って、自分で削った丸くない板を付けたことがあった。
男の手が、その玩具の前で止まった。
「持っていたんですか」
父は頷いた。
私は鞄の肩紐を握る。
「私より、それを」
言うつもりではなかった。
父の口が動き、閉じた。
奥から女の人が秤を抱えてきた。
「もう使えるかい。粉を量れないと、列が伸びちまう」
父は私から目を離せないまま、「待ってくれ」と言った。
私は台の上を見た。秤の針を戻す細い軸が、半分だけ外されている。この状態では渡せない。
「先に直して」
「リタ」
「待ってる人がいるんでしょう」
父は一度だけ目を伏せ、工具へ戻った。
軸の先を磨き、薄い板を一枚挟む。針が揺れて、真ん中に戻った。女の人がいつもの重りを皿へ置くと、左右がそろう。
「助かった。昨日から多めに入れてたんだよ」
「返しすぎれば、お前の分がなくなる」
「少なく渡すよりはいいさ」
女の人は秤を持って出ていった。修理代の代わりらしい粉の袋が、机の下へ置かれる。
父はまだ、物を直していた。
誰かに必要とされて、ありがとうと言われていた。
私はそのことに安心して、同時に腹を立てた。
「あなたが、ローデンですね」
確認するような声になった。
「そうだ」
「鉱王の留めを作った?」
「留めの最後の調整は、私がした」
父は、私の背後にいるヴァルドへ目を向けた。
「久しいですね」
「挨拶は後だ」
「……そうですね」
ヴァルドは入口の脇へ立った。外からの光を塞がず、私の前にも出ない。
父は椅子を引いた。
「座ってくれ」
「質問に答えてから」
私は控えの写しを置く。金具の炭写しも、その隣へ並べた。
父の目が動いた。
紙を持ち上げず、二本刻みのあたりへ視線を止める。
「持ち帰ったのか」
「写しです。実物は別のところにあります」
父は頷いた。なぜか、それで少し褒められた気がして、嫌だった。
「王なき工房の人なんですか」
「ここも、その工房の一つだ」
私の手が冷たくなった。
看板には、そんな名は書かれていない。けれど、治療を終えた鉱王の歯から出たものと、目の前で直った秤が、同じ場所へつながっている。
「お母さんの道具は」
「いくつか、ここへ来た」
「あなたが持っていったんですか」
「事故の後、押収された物を。後になって、受け取った」
順番だけは、手元の記録と合っていた。
合っているから、まだ怖かった。
父が私の工具鞄を見た。蓋の縁から、可動鏡の柄が出ている。
「その鏡は、エルナの継ぎ手か」
「私が作りました」
「軸は細いが、受ける面を広くしたんだな。よく保つ形だ」
私の指が、柄へ伸びた。
いつもなら何度も説明しなければ伝わらないところを、一目で見られた。嬉しいと思ってしまった。そのことが、いちばん腹立たしかった。
父も手を伸ばす。
「ここだけ、少し引っ掛かっている」
私は鞄を引いた。
「触らないで」
やすりを取ろうとしていた手が止まった。
父はゆっくりと、机の上へ戻した。
「すまない」
十年ぶりに聞いた謝罪が、工具を触ろうとしたことへのものだった。
私は笑えなかった。
「どうして、帰ってこなかったんですか」
父の視線が、棚の工具へ逃げた。
「やるべきことがあった」
「私には、なかったんですか」
工房の奥で、水が一滴落ちた。
父は答えなかった。
ヴァルドも、代わりには答えなかった。
私は立っているのがつらくなり、父が引いた椅子に座った。座ったら負けたような気がしたが、足が痛いまま勝つ必要もなかった。
鞄を膝へ置く。
「帰ってこなかった理由も、この金具のことも、聞きます。今日は」
父は向かい側の椅子へ座った。
玩具の荷車が二人の間にあった。私が削った不揃いの車輪は、直されずに残っていた。
私はそれを脇へ寄せ、代わりに、歯色の薄片から外れた金具の写しを置いた。




