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竜王の歯医者ですが、虫歯一本がダンジョンになっています  作者: sakumaaa
第七章 父の工房

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第49話 父は、まだ物を直していた

 父に会ったら、最初に何を言うべきか。


 製粉所の扉が見える距離になっても、私は決められずにいた。


 止まった水車の下を、細い水流がさらさらと抜けていく。壁には粉ではなく、修理を待つ道具が立てかけられていた。鍋、秤、荷車の軸。どれも、かつて工具店で見慣れた壊れ方ばかりだった。


 ヴァルドは人の姿で隣を歩いていた。竜で降りるのは少し離れた場所にしてもらった。


「ここです」

「見えている」


 私の足が不意に止まったのを、彼は急かそうとはしなかった。


 開け放たれた扉の奥から、やすりをかける音が響いてくる。


 しゃっ、しゃっ、しゃっ、と三度削り、さっと粉を一度払う。


 工具の扱い方の癖なんて、似ている人間はいくらでもいるはずだ。


 そう自分に言い聞かせてから、敷居をまたいだ。


 作業台の前に、男がいた。


 髪に灰色のものが増えている。肩は記憶より丸かった。けれど、部品を光へ向ける手の形は、何も変わっていなかった。


 顔を確かめるより先に、その手を覚えていた。


 男の手が、やすりを止める。


 振り返り、私を見た。


 私の名を呼ぶまでに、ほんの一呼吸の間があった。


「……リタ」


 たったそれだけで、十年かけて積み上げてきた言葉が、すべて使えなくなってしまった。


 作業台の脇には、小さな木の荷車があった。後ろの車輪だけ色が違う。


 子供のころ、父が作ってくれたものに似ている。車輪を割って、自分で削った丸くない板を付けたことがあった。


 男の手が、その玩具の前で止まった。


「持っていたんですか」


 父は頷いた。


 私は鞄の肩紐を握る。


「私より、それを」


 言うつもりではなかった。


 父の口が動き、閉じた。


 奥から女の人が秤を抱えてきた。


「もう使えるかい。粉を量れないと、列が伸びちまう」


 父は私から目を離せないまま、「待ってくれ」と言った。


 私は台の上を見た。秤の針を戻す細い軸が、半分だけ外されている。この状態では渡せない。


「先に直して」

「リタ」

「待ってる人がいるんでしょう」


 父は一度だけ目を伏せ、工具へ戻った。


 軸の先を磨き、薄い板を一枚挟む。針が揺れて、真ん中に戻った。女の人がいつもの重りを皿へ置くと、左右がそろう。


「助かった。昨日から多めに入れてたんだよ」

「返しすぎれば、お前の分がなくなる」

「少なく渡すよりはいいさ」


 女の人は秤を持って出ていった。修理代の代わりらしい粉の袋が、机の下へ置かれる。


 父はまだ、物を直していた。


 誰かに必要とされて、ありがとうと言われていた。


 私はそのことに安心して、同時に腹を立てた。


「あなたが、ローデンですね」


 確認するような声になった。


「そうだ」

「鉱王の留めを作った?」

「留めの最後の調整は、私がした」


 父は、私の背後にいるヴァルドへ目を向けた。


「久しいですね」

「挨拶は後だ」

「……そうですね」


 ヴァルドは入口の脇へ立った。外からの光を塞がず、私の前にも出ない。


 父は椅子を引いた。


「座ってくれ」

「質問に答えてから」


 私は控えの写しを置く。金具の炭写しも、その隣へ並べた。


 父の目が動いた。


 紙を持ち上げず、二本刻みのあたりへ視線を止める。


「持ち帰ったのか」

「写しです。実物は別のところにあります」


 父は頷いた。なぜか、それで少し褒められた気がして、嫌だった。


「王なき工房の人なんですか」

「ここも、その工房の一つだ」


 私の手が冷たくなった。


 看板には、そんな名は書かれていない。けれど、治療を終えた鉱王の歯から出たものと、目の前で直った秤が、同じ場所へつながっている。


「お母さんの道具は」

「いくつか、ここへ来た」

「あなたが持っていったんですか」

「事故の後、押収された物を。後になって、受け取った」


 順番だけは、手元の記録と合っていた。


 合っているから、まだ怖かった。


 父が私の工具鞄を見た。蓋の縁から、可動鏡の柄が出ている。


「その鏡は、エルナの継ぎ手か」

「私が作りました」

「軸は細いが、受ける面を広くしたんだな。よく保つ形だ」


 私の指が、柄へ伸びた。


 いつもなら何度も説明しなければ伝わらないところを、一目で見られた。嬉しいと思ってしまった。そのことが、いちばん腹立たしかった。


 父も手を伸ばす。


「ここだけ、少し引っ掛かっている」


 私は鞄を引いた。


「触らないで」


 やすりを取ろうとしていた手が止まった。


 父はゆっくりと、机の上へ戻した。


「すまない」


 十年ぶりに聞いた謝罪が、工具を触ろうとしたことへのものだった。


 私は笑えなかった。


「どうして、帰ってこなかったんですか」


 父の視線が、棚の工具へ逃げた。


「やるべきことがあった」

「私には、なかったんですか」


 工房の奥で、水が一滴落ちた。


 父は答えなかった。


 ヴァルドも、代わりには答えなかった。


 私は立っているのがつらくなり、父が引いた椅子に座った。座ったら負けたような気がしたが、足が痛いまま勝つ必要もなかった。


 鞄を膝へ置く。


「帰ってこなかった理由も、この金具のことも、聞きます。今日は」


 父は向かい側の椅子へ座った。


 玩具の荷車が二人の間にあった。私が削った不揃いの車輪は、直されずに残っていた。


 私はそれを脇へ寄せ、代わりに、歯色の薄片から外れた金具の写しを置いた。

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