第47話 閉じた道にも、朝は来る
朝一番に聞こえてきたのは、槌の音ではなかった。
ドルガのいびきだった。
診察場の長椅子で、王は両手を腹の上に載せて眠っている。昨日まで顎を押さえていた手だ。私は少し離れた机で、記録板の線を見つめた。
昨夜に引いた帰り道の線は、朝になっても消えずに残っていた。
「消えてませんね」
「余も見ておる」
ヴァルドが戸口に寄りかかっていた。
「眠れました?」
「そなたよりはな」
「それ、ほとんど眠れなかった人の答えですよ」
「先に訊いてきたのはそなただ」
言い返そうとしたところで、あくびが出た。口のほうが先に降参してしまった。
ミラは日の出前から坑口の支えを見に行っていたらしい。戻ってくると、濡れた靴底を戸口でこすり合わせた。
「残した二本の支え、沈みはない。最奥は閉じたままだ」
「人は?」
「零。昨日と同じ」
その報告を聞いてから、私は腰掛けに座り直した。
治療が終わったからといって、山が昨日までの姿に戻るわけではない。閉じた道は閉じたまま、置いてきた槌もその先にある。
けれど、誰かが取りに戻らなくても朝になった。
ドルガが目を覚ました。最初に机の上の図面を見て、それから私たちを見回した。
「……寝ていたか」
「かなり堂々と」
「すまん」
「診察代に含めます」
王が本気で財布を探そうとしたので、私は慌てて手を振った。
朝の確認では、口を開けても奥へ痛みが走ることはなかった。短い診察にとどめ、新しい支えがずれていないかだけを確かめる。削った傷は残ったままだし、補修した箇所も点検なしで放っておけるものではない。
ミラには目視で確認できる兆候を教え、ドルガには痛みの出方が変わったらすぐに知らせてほしいと頼んだ。
「数字で我慢する前に、ですよ」
「痛いと口にすればいいのだな」
「昨日のあなたにも聞かせてやりたい台詞ですね」
ドルガは少し考え込んだあと、昨日の依頼書を裏返した。
そこに、自分の字で点検日を書いた。
朝食は硬いパンではなく、柔らかく煮た穀物だった。私は具の少なさに視線を落としたが、すぐに匙を取った。
白い髭の坑夫が、空いた器を片づけながら言う。
「今日の採掘は休みです。明日から、手前から一組ずつ入ります」
「無理に戻さないでください」
「王様も、そう仰ってますよ」
ドルガは聞こえないふりをしていた。
食べ終えてから、昨日回収した金具と黒い膜を取り出した。布を敷いた机の上でだけ、慎重に蓋を開ける。膜は黒いまま、皿の底へ張りついていた。
父の刻みを探している自分に気づいた。
私はいったん手を止め、先に金具の傷と形を記録した。見つけたいものだけを探すと、見たもののほうを曲げてしまう。
目立つ刻みはなかった。
ドルガが別の紙束を運んできた。倉庫の納品票ではなく、すでに支払いを済ませた仕事の控えだという。
「補修師を探すなら、これも見ろ」
金額と材料の欄の下に、修理を受け付ける場所が記されていた。
山越えの道にある、水車を止めた古い製粉所。
その隣の担当者欄で、私の目が止まった。
ローデン。
字は、私の知っているものに似ていた。払いの短い「ン」。狭い欄へ、最後だけ無理に押し込む癖。
日付は、母が死ぬ前ではなかった。
「この人に、会ったんですか」
声が変わったのが自分でも分かった。
ドルガが紙を見下ろす。
「来た補修師とは違う名だ。製粉所で調整した部品を持ち込んだと聞いた」
「直接は、会ってない」
「そうだ」
私は紙の端を持った。油で柔らかくなっている。強く掴むと裂けそうで、机に置き直した。
同じ名の人かもしれない。
誰かが名を使ったのかもしれない。
そういう言葉は、いくらでも出せた。出したところで、目の前の字は消えなかった。
ヴァルドは私の横へ来たが、紙には触れなかった。
「どうする」
「行きます」
早すぎる返事だった。
昨日までの私なら、もう工具を詰め始めていただろう。今日も詰めたかった。
けれど、父につながるかもしれない物は、この紙だけではない。
「その前に、預けた箱を見ます」
「あの小金具か」
「はい。あなたが、見せなかったものを」
ヴァルドの目が細くなる。怒ったのではなく、言葉を選んでいるようだった。
「余だけでは開けられぬ」
「一緒に頼みます。保管している人たちに」
ミラが机の横で、荷を包む布を畳んでいた。
「原本はここに置く。写しなら、照合する」
私は頷いた。
自分の手で文字を写す。ローデン、と書くところだけ、筆先が一度止まった。
ミラはそこを直さず、書き終わるまで待った。
出発は明日の朝にした。
昼の点検を済ませ、残す坑道の入口を見てからだ。待っている間に父がいなくなるのではないか。そんな考えが何度も浮かんだ。
そのたび、昨日の赤い線を見た。
ここにも、私の仕事が残っている。
夕方、ドルガが小さな包みを差し出した。点検用に取っておく分とは別の、石皮の薄片だった。
「余った分だ。使えるなら持っていけ」
「ありがとうございます」
「俺のように、動かなくするなよ」
私は包みを受け取り、思わず笑った。
「少し滑るようにします」
ヴァルドが外から呼んだ。飛ぶ準備ではなく、夕食ができたという知らせだった。
私は机の紙を伏せ、工具箱の蓋を閉じた。
父の名前は、夕飯を食べても消えない。
そう自分に言い聞かせて、戸口へ向かった。




