第46話 一本ぶん、山を下ろす
留め金を外す前に、私は工具を一つ減らした。
「それは使わないの?」
ミラが太い鉤を指さした。
「引っ張りたくなるので」
机へ戻すと、ヴァルドが黙ってそれを遠ざけた。そこまで信用がないのは少し悲しい。けれど自分から戻したばかりなので、文句は言えなかった。
ドルガの口が開く。
入口の輪へ石皮の薄片を添え、内側の熱と力になじませる。帰る目印の布を動かし、外にいるヴァルドと合図を確かめ合った。命綱は台座へ結び直してある。
ミラと私は、さっき通った道へ戻った。
帯金の中央には黒い筋が走っている。その脇で、薄くなった石が白い光を漏らしていた。
私は新しい支えの脚を、傷んでいない左右の石へ渡す。ドルガの石皮を内張りにした広い接地面が、ゆっくりとなじんでいく。
段のついた留めへ、古い帯金を受ける輪を掛けた。
まだ古い金具は外さない。
「一段だけ、受けます」
ミラが外へ打音を送った。向こうで復唱され、少し遅れてドルガの声が入口から届く。
「やれ」
ねじを回す。半回転、もう半回転。
帯金がこちらへ寄り、新しい支えの端が震えた。留め具の最初の段へ、重みが乗る。
止まった。
息を吐こうとした瞬間、ミラに手首を押さえられた。
「右」
脚の片方が、白い石の粉を押し出していた。
受ける場所が浅かったのだ。
「戻します」
回した分だけねじを逆回転させた。古い金具へ重みが戻り、支えの震えが止まる。ミラは手を離さず、私が指を開くまで待っていた。
ここで力任せに締めれば、同じ失敗を繰り返す。
脚の先を削るのではなく、幅のある添え板をもう一枚重ねた。予備に持っていたドルガの石皮を挟み、奥の硬い面へ届かせる。
同じように半回転。
今度は粉が出なかった。
ミラが脚の下を鏡で確かめる。私はその鏡を覗き込んだ。自分の位置から見えない場所を、無理に首だけ伸ばして見ようとはしなかった。
「持ってる」
初めて、古い金具の鋲へ触れた。
針で縁を起こすと、下の黒い筋が薄い膜になってついてくる。滑りを抑える下地。その説明だけなら、間違いではなかったのかもしれない。
ただ、膜の下では、石の白さがすっかり抜けていた。
私は刃を深く入れず、金具の縁に沿って膜を切り分けた。ミラが小さな受け皿を差し出す。剥がした端が皿へ落ちた瞬間、帯金が跳ねた。
カチリ、と新しい留めが一段鳴る。
私の手も止まった。
外で石が落ちる音がした。ドルガの停止合図だった。
「手を離します」
刃を抜き、両手を上げる。新しい留め具はそこで止まり、帯金を保持していた。手を添え続けなければ崩れるような道具にはしなかった。
遠くで、重い石が擦れ合う音がした。
最奥の道だろうか。
入口を振り返る。帰る目印の棒は動いていない。
「ドルガ、聞こえますか」
返事があるまで、少し間があった。
「……聞こえる」
「痛みはどうですか」
「奥ではない。左へ来た」
ミラが手帳を開く。外の坑道の図へ指を滑らせ、首を横に振った。
「予定の動きではない。外を確かめる」
彼女は入口の近くへ戻り、打音を送った。私は帯金から離れた硬い足場で待機する。刃先についた黒い膜を眺めていても、仕事は進まない。今は進めてはいけないのだ。
やがて、外から音が返ってきた。
「空の荷車が、閉じる道の境目に残っていた。それが引っ掛かっている」
図面には道しか描かれていない。そこへ残された荷車までは入っていなかった。
ヴァルドの声が遠くで響いた。言葉までは聞き取れない。しばらくして、外の作業員が荷車を押す音がした。車輪の音が遠ざかり、さらに打音が返るまで待つ。
ミラが合図を聞き届け、私を見る。
「荷車はどけた。作業員も全員、柵の外」
ドルガが低く息を吐いた。
「続けていい」
私は刃を取る前に、新しい支えをもう一度確かめた。段は滑っていない。
黒い膜を金具の下から取り切り、古い金具とともに受け皿へ移す。
最後の細い筋が切れたとき、白い鉱脈の光がふっと途切れた。視界が暗くなる。私はミラの袖へ指を掛け、その場から足を動かさなかった。
次の瞬間、左右の壁から柔らかな光が戻った。
けれど、留め金の下に残った傷までは戻らない。
石皮と接合材を重ね合わせ、その上へ幅の広い支えを定着させていく。手元だけを温め、力の流れになじむのを待った。白い粉が出ず、支えが傷の両側へ定着したことを鏡で確かめる。黒い膜は受け皿から蓋つきの容器へ移し、古い金具とともに収めた。
あとは、山を下ろすだけだ。
ミラが合図を送る。
ドルガが少しずつ顎の力を緩め、私は段付きの留めを一段だけ下げた。帯金が滑る。足の下から、長く重い震えが伝わってきた。
一段。
止める。
異常があれば、ドルガは力を戻せる。留めはその一段より先へ勝手に滑らない。
ドルガと、柵の外の作業員から返事が届くまで待つ。
同じ手順を繰り返すうち、歯の奥に開いていた暗い道が徐々に低くなっていった。無理に潰そうとしているのではない。ドルガが一人で持ち上げ続けていた重みを、もう誰もいない場所へ戻しているのだ。
最後の段に差し掛かったとき、彼の声が届いた。
「その先には、俺の最初の槌がある」
私は手を止めた。
ミラも何も言わなかった。
静かな間のあと、ドルガが言った。
「下ろしてくれ」
私は留めを下げた。
ズズ、と低い地鳴りが腹の底へ響いた。やがて震えは遠ざかり、帯金は新しい位置で止まった。
ミラが入口を振り返る。仕掛け棒は動かず、外の白い布が見えていた。
私は記録板へ、帰り道の線を引いた。
今度は、消えなかった。
「まだ帰れますよ」
そう言うと、ミラが初めて微かに口元を緩めた。
「なら、今のうちに」
容器と道具を抱え、二人で光の射すほうへ歩き出す。
外へ出ると、ドルガが椅子の背にもたれていた。掌は開いている。ヴァルドが床から拾い上げた停止石を、肘掛けの上へ置いた。
「未帰還者は」
王の問いに、ミラが答える。
「零。道具は、残りました」
ドルガは目を閉じた。
「……それでいい」
私はまだ小さく震えていた手から、工具を一本ずつ外していった。




