第45話 王様が捨てる一本
閉じる坑道に、赤い線を引く。
それだけの作業なのに、筆はなかなか進まなかった。
「これは、俺が開けた道だ」
ドルガの指が、図の一番奥に置かれている。ミラはその指を避け、残る二本の道をなぞった。
「ここを残すと、交代所までの支えが足りない」
「石はまだ出る」
「出せる人が帰れなくなる」
ドルガは黙り込んだ。
私は作業台で細い金具を曲げていた。話を聞かないためではない。聞いていると何か言いたくなってしまうので、手を動かしていたのだ。
閉じればいい。休めばいい。
そんな簡単な言葉を口にする役なら、私でなくても足りている。
診察場へ、白い髭の坑夫が入ってきた。帽子を胸に抱え、足元の粉を払う。ミラが呼んだ、第三坑の現場をまとめている人だった。
「奥を捨てる話だと聞きました」
ドルガの指が動いた。
「まだ決めてはいない」
「では、先に飯の数を。今日明日の分なら倉にあります。ですが、一冬越す分はありません」
坑夫は脅すような口調ではなく、人数を淡々と確かめるような声で続ける。
「入口の二本を残せれば、荷は減っても運び出せます。奥を支えている木材を、帰り道へ使いたい」
「……奥の石は、価値が高い」
「ええ。ですから、皆そっちへ向かいます」
王はその答えを聞いて、ようやく図面から手を引いた。
ミラが地図へ指を置く。帰り道の途中に、細い首のように狭まった場所があった。
「奥の重みは、ここに返ってくる。歯の留め具を緩めると、ここが先に下がる」
「閉じたらどうなる」
「人も荷も運び出して、下がる場所をあらかじめ空けておく。手前の二本は、別の柱で支える」
すべてを持ち上げるのではなく、落ちてもいい場所を作る。
私は曲げかけていた金具を置いた。
「歯も同じようにできるかもしれません。傷んだ場所へすべての力を集めず、残す道の分だけ受け止めるようにするんです」
「奥を捨てたとして、治るのか」
ドルガの目が私へ向く。
「それだけでは治りません。黒い筋と留め具を調べて、傷んだところも支え直す必要があります。奥の道を失っても、失敗する可能性はあります」
坑夫の抱えた帽子が、胸の前でわずかに潰れた。
言わないほうが話は早く進む。一瞬でもそう思ってしまった自分が、嫌だった。
「……それは、書類には書いてなかったな」
ドルガが依頼書の束を見る。
「書く欄が足りませんでした」
「二十八枚だぞ」
「枚数の問題じゃなかったみたいです」
王の口元がかすかに動いた。笑ったのか、痛みを堪えたのかは分からなかった。
ヴァルドは壁際で黙り込んでいた。彼なら、今ここで鉱山の石を買い上げると約束できるのかもしれない。けれど、何も言わなかった。
私も頼まなかった。治すための判断を、よその王が全部買ってしまっていいとは思えなかった。
ドルガが赤い筆を取った。
一番奥の道へ、短い線を引く。
途中で手が止まり、筆先から赤い色が丸く滲んだ。
「この先に、まだ道具がある」
「取りに戻るのは、今の支えで行ける場所までです」
ミラが言った。
「その先は、残します」
私は工具鞄の取っ手を握りしめた。
もし自分の道具だったら、同じことをすぐ言えただろうか。
ドルガは筆を進めた。道具の印も、鉱脈の印も、赤い線の向こう側へと取り残される。
「閉鎖する。俺の判断だ」
「私の測量でも必要です」
「現場も、その案で動きます」
王だけの声で終わらなかった。
白い髭の坑夫が帽子を被り直す。ミラと並んで外へ向かう背中を見送り、私は手元の留め金へ意識を戻した。
新しい支えは、長い穴をただ真似ただけでは足りない。
滑り始めたところで一段止まり、それ以上は勝手に進まない。患者が力を緩めたとき、次の一段へ下ろせるような形にしたい。
荷車の歯止めを、小さく作るようなものだった。
ドルガが腕を差し出してきた。
「材料は、これでいいか」
作業着をまくった肘のあたりに、薄く浮いた石皮がある。古い補修に使われていたものと同じ色合いだった。
「剥がしても痛くないところだけにしてください」
「ここは、もう剥がれる」
彼は自分で縁を摘まみ、薄片を外した。下の皮膚は傷ついていない。私は布で受け取り、指先で反りを確かめた。
患者の材料を、患者の前で削る。
ドルガはじっと手元を見ていたが、急かすようなことは言わなかった。
夕方になる前に、ミラが戻ってきた。
最奥の区画から、人と運べる荷物を出し終えたという。王の支えを緩めるのはまだ先で、入口に近い二本へ柱を入れる作業が続いているとのことだった。
その間に、私は段のついた小さな留め具を三度作り直した。
一つ目は滑らない。二つ目は滑りすぎる。三つ目は、止まるたびに嫌な音がした。
「いい音ではないな」
ヴァルドが言う。
「耳は正常です」
「道具の話をしておる」
最後の一枚を薄く削ろうとすると、ミラがやすりの上へ指を置いた。
「薄くするより、受ける面を広げたら」
私は手を止めた。
細く作ろうとして力を受ける面を減らしてしまう。最初の鏡で、同じ失敗をしたことがあった。
「……それでいきます」
試作品の横へ、新しい幅の線を引き直した。
今度は、一段ずつ止まった。
夜に入るころ、坑口から低い合図が届いた。残す二本の支えが揃った知らせだった。
ドルガは赤い線のある図を畳まず、椅子の隣へ置いた。
「始めてくれ」
「途中で止めるかもしれません」
「俺もだ」
白い停止石を持つ指が、さっきより少し開いていた。




