第44話 歯の中に、借り物の壁がある
二度目の入口は、一度目より狭く見えた。
実際には同じ幅だ。くぐる前から、私の肩が勝手に縮こまっているだけだった。
「やめるか」
ヴァルドが訊いてきた。
「肩が勝手に相談を始めただけです」
「身体の意見も聞いてやれ」
「聞いてます。だから、ゆっくり入るんです」
命綱の外端は、診察椅子の台座へ二重に結んである。その途中をヴァルドが握る。入口の脇には白い布が垂れ、ドルガの掌には停止石が握られていた。
ミラが先に継ぎ目を確かめ、私もその背中へ続いた。
空気が冷たい。
さっき私たちを閉じ込めた薄壁は、斜めに開いたまま止まっていた。その奥へ、帯金が低く伸びている。ミラは足元に白墨で印をつけたが、地図は広げず、手帳へ歩数だけを書き留めた。
「戻るための目印は、ここ」
「覚えました」
覚えたからといって安心できるわけではなかった。背中に触れる命綱の手応えを、何度も確かめずにはいられない。
帯金に沿わせるようにして、手元の鏡を先へ送る。
十二年前の支えと、七年前の支え。その二つに渡された帯が、薄壁の裏側で一本に重ねられていた。重なり合ったその中央で、見慣れない留め金が鈍く光っている。
「……図面の形そのままですね」
丸い穴に鋲がぴったりと収まっている。古い部品にあったような、力を逃がして滑る余地はどこにもない。
その留め金の下だけ、石の表面が黒かった。
私は鏡を引き、角度を変えて覗き込む。暗がりだからそう見えるのではない。白い鉱脈を横切る、爪の幅ほどの細い筋だ。
黒い筋は留め金の下へと潜り込み、そこから壁の左右へと枝分かれしている。
「取るのか」
「触りません」
ミラへの返事は、自分でも驚くほど迷いなく出た。
海王のときは、糸を抜けば反対の港が沈むところだった。ここにある物が何であれ、黒いというだけでは抜けない。
節付きの測り針を、黒い筋ではなく、その手前の石肌へと沿わせる。
浅い窪みがあった。帯金に隠れていた部分の石が、薄く剥がれ落ちている。その先を確かめようと鏡を寄せた瞬間、ミラが私の肩をぐっと押さえた。
「動いている」
帯金が、音もなくゆっくりと右へ寄っていた。
壁そのものは動かない。ただ、白い鉱脈の光が細くなり、鏡の奥に映っていた曲がり角が見えなくなる。
私は即座に針を引いた。
クン、と命綱が短く引かれる。外からの合図だ。
「戻ります!」
ミラはすでに立ち上がっていた。二人で帯金の脇を離れ、滑り込んできた継ぎ目へと駆け戻る。入口の白い布を動かす仕掛け棒が、内側の石に押されて少し傾いていた。
肩をすぼめ、横向きになって隙間を抜ける。外ではヴァルドの手が待ち構えていた。今回は強引に引っ張り上げられることもなく、肘をそっと支えられて床へ下りることができた。
背後で、からんと小さな石が鳴った。
ドルガが停止石を床へ落としたのだ。入口はそれ以上狭まることなく、輪の向こうに白い道が保たれた。
「痛みが変わった」
ドルガが言った。
「奥へ引かれた。お前たちが何かしたのか」
「石の手前の寸法を測っただけです。でも、それが刺激にならなかったとは言い切れません。今はそのまま動かないでください」
私は鏡に残っていた粉を布で受け止めた。黒い筋には触れていない。落ちてきた粉は、白いままだった。
ミラは手帳を開き、留め金の形状を言葉で書き留めていく。
私が余白へ曲がり角の図を描き足そうとすると、やはり線の端がじわりと消えてしまった。けれど、留め金単体を描いた小さな図だけは、そのまま紙に残っている。
「物の形は残る。けれど、道の繋がりは消えてしまうのか」
「現場へ入るたびに描き直していては、とても追いつかんぞ」
ヴァルドが眉をひそめて言う。
「ええ。だから、今日は地図の線だけを頼りには歩きません」
私は消えていく線を追うのをやめ、正面のドルガへ向き直った。
「この新しい留めは、誰が付けたんですか」
「補修師だ。王なき工房から来た。外から古い留めを外し、穴を合わせていた」
「黒いものの説明は?」
「滑りを抑える下地だと」
王は、使われたものの名前を知らなかった。
依頼書には補修の完了日も、取り替えた箇所もあった。けれど、下地の中身まではなかった。私だって、買った釘の材料を全部調べてから使っているわけではない。
「……前より楽になった、と言っていたな」
ヴァルドの低い問いに、ドルガが頷く。
「最初はな。夜も起きずに済んだ」
「いつから悪化したのだ」
「採掘を、さらに奥へ延ばしてからだ」
ミラが、実際の坑道の断面図を机の上に広げた。
黒く印のつけられた坑道が三本、同じ区画へと集まっている。どれも新しく掘られたものだ。私はその先端を指差した。
「ここに、支えが足りなくなった」
「王が持つ予定だった」
ドルガは図面を見つめたまま答えた。
丈夫になった歯を当てにして、外の仕事が増えたのだ。
私は留め金を描いた小さなスケッチを、坑道図の脇へ並べた。
「新しい金具は、本当にしばらくの間、役に立っていたんですね」
「そうだ」
「でも、今の歯は薄くなっています。帯金を留めるための土台ごと、もう持ちこたえられなくなっているんです」
ドルガの節くれだった石の指が、三本の坑道の上を順繰りになぞった。入口、交代所、そして最奥。人が働く順番に追っているのだと、少し遅れて気がついた。
工房の印を見た瞬間には、また敵を見つけたと思った。
けれど、ここで増えた道を決めたのは誰か。丈夫になったから大丈夫だと考えたのは誰か。黒い筋があることと、全部が同じ者の仕業であることは、別だった。
ヴァルドが腕を組む。
「新しい道を閉じればよい」
「一言で片づけるな」
ドルガの声が初めて強くなった。
「そこから出る石で冬の穀物を買う。止めれば、その分は来ない」
私は口を閉じた。
治す間だけ止めてください、と言うつもりだった。その間が何日になるか、私はまだ答えられない。
ミラが図面を引き寄せ、最奥に伸びる一本へ指を置いた。
「全部を残す図は、引けません」
ドルガが彼女を見る。
「帰れる道なら引きます」
机の上には、先ほど私が作った小さな木組みの模型が残されていた。丸い穴で固く留められた板の脇には、白く裂けた亀裂が走っている。
私はその板を、ドルガの指先の前へと静かに置いた。
王が頑張れば済む仕事を、もう増やしてはいけなかった。




