第42話 休むのにも、腕がいる
ドルガは、私の問いにすぐには答えなかった。
代わりに右手で顎を押さえる。その拍子に、ミラの地図から道の端がまた少し消えた。
「第三坑の天井だ」
ようやく返ってきた声は、石を噛んでいるかのようだった。
「十七本折れた。残った支えだけでは足りん」
「さっき力を緩めたときは?」
「下がった。まだ落ちてはいない」
助かったのは私たちで、そのぶん山の中が危なくなったわけだ。
記録板を持ち直そうとすると、指先が滑った。ヴァルドが板の下へ手を差し入れ、黙って支えてくれる。私はそのまま膝の上へ戻した。
「まず、全員が戻っている間に調べます。中へは入りません」
「ならば、力を戻す」
「待ってください。戻すと、今度は歯の中が閉じます」
ドルガの目が、私から地図へ移った。
ミラは紙を机へ広げ、端を水筒で押さえている。入口からの線は残っているものの、古い支えの手前だけが消えたり戻ったりしていた。
「この紙、普通の紙ですよね」
「市で買った」
「炭も?」
「同じ店。安いほう」
魔法の高級測量具という線は、あっさり消えた。私の記録板まで巻き込まれているのだから、最初から期待は薄かったけれど。
私は板の隅へ椅子を描いた。脚が一本長くなってしまったが、座れるかどうかを試す絵ではない。
その横に、歯の中で通った道をもう一度描く。
ドルガが息を詰めた。
椅子は残った。道は、古い支えを描いた位置から短くなった。
「……紙じゃない」
ミラが私の板を覗き込む。
「坑道の形を写した線だけ」
「少なくとも、今はそう見えます」
指でなぞっても炭はつかない。消した跡もない。理屈の分からないものを、もっともらしい名前で片づけるのはやめた。
私は線の下へ、見たことを文字で書く。
入口。二十歩。第一の支え。
文字は消えなかった。
「絵と別に、歩数と目印を残しましょう」
「すでに書いた」
ミラの小さな手帳には、帰ってきたときの時刻まで入っていた。
仕事が早い。できれば、私の怖がる速度にも少し合わせてほしい。
ドルガがまた顎を押さえたので、私は手を止めた。
「今、何をしました?」
「天井を持ち上げた」
「歯は?」
「奥へ押される」
その返事で、胸に引っ掛かっていたものの形が少し見えた。
山を支えようとすると、歯の中では古い帯が引かれる。けれど、いつからそうなったのか。十二年前の支えも、七年前の支えも、今までは使えていたはずだ。
「最後の補修の記録を見せてください」
ミラが依頼書の束から一枚抜いた。ドルガは日付より先に、端へ記された作業完了の印を見た。
「帯の留めを替えた。折れたと報告を受けたのでな」
「交換した留めは、どこにあります?」
「古い物なら倉庫だ。捨ててはいない」
よかった。捨てられた部品に会いに行くのは、普通の部品に会うよりずっと難しい。
「持ってきてもらえますか。新しいほうの納品票も」
私は、自分とミラをつないでいた綱をようやく解いた。結び目は固く締まっていた。焦って刃を入れず、一つずつ緩める。
ミラは戸口へ出て、外にいた坑夫へ短く頼んだ。戻る途中、壁を手の平で押さえる。その眉が動いた。
「下がり方が速くなった。第三坑の東側」
ドルガが椅子の肘掛けを握る。
私は反射的に彼の手を止めかけて、引っ込めた。今は歯だけの話をしていない。
「少し戻すと、どれくらい持ちますか」
「分からん。歯の奥が先に裂けるかもしれん」
痛みを数字の後ろへ隠さない返事だった。欲しかった情報なのに、聞いた途端、胃が冷える。
「余が外を支える」
ヴァルドは戸口を見ていた。
「鉱王の歯へは入れぬが、坑道の石なら触れる」
「山ごと持ち上げるのは禁止です」
「そなたは余を何だと思っておる」
「やろうと思えばできる人です」
「場所による」
否定してほしかった。
ミラが地図を畳み、手帳だけを取った。
「入口の外、国土側へ張り出した一か所を支えれば、奥の下がりを遅らせられる。坑道へは入らない」
「案内せよ」
「低いので頭を下げてください」
「見れば分かる」
直後、戸口で鈍い音がした。
私は聞こえなかったことにした。ヴァルドも、ぶつけなかったことにしたらしい。そのまま二人とも出ていった。
診察場には、石が擦れる小さな音だけが残った。
ドルガの手の下で、肘掛けに白い粉が溜まっている。
「他の者へ渡したことがないんですか」
「交代する坑夫はいる」
「あなたの仕事を、です」
彼は口を閉じた。目の前に座っているのに、返事を探す先はずいぶん遠そうだった。
「俺が支えれば済んだ」
そう言って、肘掛けから手を離す。
「昨日までは」
「今は、ヴァルドを待ちましょう」
それ以上のことは言わなかった。私も、待っている間に何か直せないかと、ずっと割れた肘掛けを見ていたからだ。
やがて、外から三度、間を空けた打音が届いた。
ドルガが顔を上げる。
「支えが入った」
ミラが戻ってきた。額に白い粉をつけ、息を整えるより先に手帳を開く。
「国土側の張り出し一か所。竜王が下から保持。坑夫は入口の外から添え木を入れている。奥は無人のまま」
「力を少しずつ緩められますか」
ドルガが頷いた。
今度は、私も地図の線を見た。彼の顎が下がるにつれ、途切れていた道が伸びていく。ミラは壁へ手を当て、しばらく待ってから頷いた。
「天井、動いていない」
「もう少しだけ」
ドルガの肩が落ちた。
痛みが抜けた、というほどではなかった。ただ、石のように固めていた背中が椅子へついた。息を吐くと、胸の前の作業着がゆっくり沈む。
「……こんなに重かったのか」
声は小さかった。
私は返事をせず、水差しを取った。大きなコップを見つけたのに、腕がうまく上がらない。ドルガが左手を伸ばして受け取り、私の分まで注いでくれた。
「お前も座れ」
「座ってます」
「そうは見えん」
どこかで聞いたばかりの注意だった。
しばらくして、坑夫が木箱を抱えてきた。中には交換前の留め金と、油の染みた納品票が入っていた。
私は布の上へ部品を転がす。
報告では折れていた。けれど実物は、大きく曲がっているだけだった。端には、一定以上の力がかかると帯を滑らせる長い穴があった。
壊れたと思われた物に、逃げる余地が残っている。
納品票に添えられた新しい部品の図には、それがなかった。穴は丸く、留めた帯が動かない形に変えられている。
「ドルガ。交換した後、顎が楽になりませんでしたか」
「なった。支え直す回数が減った」
私は二つの形を見比べた。
外で、太い木がきしんだ。ヴァルドの声が飛んでくる。
「リタ。休憩とは、こうして柱になることか」
「もう少し待ってください!」
図の丸い穴へ指を置く。
山が押しても、古い留めなら少し滑った。新しい留めは、踏ん張り続ける。そのぶんの力を、歯が受け続けてしまう。
「これ、丈夫にしすぎたのかもしれません」
ミラが私の手元を見た。
「替えれば戻る?」
「まだ分かりません。帯の奥を見ないと」
納品票を裏返す。油染みの端に、補修を請けた工房の受取印があった。
王なき工房。
私は紙から手を離した。
帰ってきたばかりの歯の中に、また、あの名前がつながっていた。




