第41話 帰り道は、地図の外にある
命綱を引いたら、鉄杭のほうが帰ってきた。
できれば人間のほうも帰してほしい。
「ミラ、そっち動かないで」
「動いていない」
「壁に言ってるんです」
背後の分かれ道が、じり、と音を立てて狭まった。
二人が立っている岩棚はまだ広い。けれど、さっきまで一本道だった場所には、すでに石の角がせり出していた。
私は鉄杭を足元へ寝かせ、手元に残った綱を手繰る。
まず結び目を確認した。ほどけてはいない。杭の先端には、打ち込んだ穴の白い岩粉まで残っていた。
「抜けたわけじゃないですね」
「根元の石ごと来ている」
ミラは広げていた地図を静かに畳んだ。
「地図、使わないんですか」
「今はあなたを見る」
彼女は私の腰へ続く綱を取り、その途中を自分の帯へ結び直した。二人が別の道へ押し流されないだけの短さだ。外へ引いてくれるはずの端は、もうどこにも繋がっていない。
正面の薄い壁が、二度鳴った。
ごん、ごん。
「ドルガ!」
叫んだが、返事はなかった。
私は鉄杭の頭で床を一度叩き、息を詰めて待った。耳の奥で自分の心音がうるさく響く。
ごん。
一度だけ、向こうから返ってきた。
ミラと顔を見合わせる。私は続けて三度叩いた。向こうからも、正確に三度。
「……通じてる」
強張っていた喉がわずかに緩んだ、その瞬間。左の壁からパラパラと石片が落ちてきた。
とっさに足を引く。安心するには、頭上の屋根が頼りなさすぎた。
ミラが壁へ耳を寄せる。
「声は聞こえますか」
私が尋ねると、ミラは首を横に振った。
「聞こえない」
「じゃあ、音で」
鉄杭を手渡すと、彼女は短く、一定の間を空けて叩き始めた。何度か音の往復を繰り返してから、背筋を少しだけ伸ばす。
「外はヴァルド。鉱王が打ち方を教えている」
「なんて?」
「生きているか、と」
「はい。かなり不機嫌ですって伝えてください」
「後半は送らない」
ミラは二度叩き、長く一度擦った。
「坑夫の合図です。二人生存、行動可能」
直後、向こうから返ってきた音は妙に重く、大きかった。壁から白い粉がバラバラとこぼれ落ち、私は思わず頭を抱える。
「そこだけ竜王の馬力で叩かないで!」
声が届いたわけではないだろうが、次の音は控えめになった。
私は薄壁の裂け目へ可動鏡を沿わせた。曇った鏡の中に、細い光が差す。壁の端ではない。斜めの継ぎ目が途中まで開き、その奥で赤い布地がかすかに揺れていた。
あの赤い袖だ。
「ミラ、ここ」
測り針を隙間へ差し入れる。前のように奥まで押し込まず、光の手前で止めた。
すると壁の向こう、境界の外側から、針の先へ硬い感触が触れる。
こん、と一度。
境界の外側に留まった、竜王の爪だ。
「入口は消えたんじゃない。閉じ込められたんだ」
私は鏡を引き、周囲を見回した。
薄壁の下には、古い帯金が走っている。さっき背後で見た支保材と同じ、石皮を押さえるための帯だ。右の端だけが壁の中へ引きずり込まれ、その力で継ぎ目を無理やり閉じ合わせている。
こじ開けたい。
ミラの手には鉄杭もある。私とミラの二人で体重をかければ、指一本ぶんくらいなら開くかもしれない。
けれど、帯金の下で細いひびが上下へ走っていた。かなりの重量を支えている。強引に抜けば、頭上から何が落ちてくるか分からなかった。
「力ずくでは押しません。外へ、顎を少し緩めてほしいと伝えられますか」
「顎、という符丁はない」
「じゃあ、作業停止を」
「それなら通じる」
ミラが杭で合図を送った。
わずかな間があった。
その間にも、爪先の継ぎ目がじりじりと狭まっていく。私は針を抜き、鏡の柄を胸へ抱え込んだ。折れてもいい道具と、折れたら困る指は、あらかじめ離しておく。
やがて、外から短い打音が返ってきた。
「待て、だそうです」
「待つ場所くらいは、こっちで選ばせてほしいですね」
ミラは鉄杭を私へ返すと、私の肘を強く引いた。直後、さっきまで立っていた位置へ、天井から拳ほどの落石が叩きつけられる。
二人で肩を寄せ合い、わずかに残った岩棚に身を縮めた。私は鉄杭も胸へ抱え込む。
きしむ音が、ふっと止まった。
今度は壁の奥で、何かがからりと転がる音がした。小さく、乾いた音。
白い石を床へ落としたときのような――。
軋んでいた帯金が、すうっと緩んだ。
薄壁が横へずれ、縦にまばゆい光が差し込む。その裂け目の向こうに、ヴァルドの顔があった。金色の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
「リタ!」
「無事です! 押さないで、今そっちへ行きます!」
肩が通る幅まで広がるのを待つ。
ミラを先へ押し出そうとしたが、逆に手首を強く掴まれた。
「綱が短い。一緒に」
横向きになって、二人で光の中へ滑り込む。ミラは先に境界の外側へ手をかけ、自分の身体を引き出した。私の上半身も裂け目の外へ出た瞬間、境界の外側で待っていたヴァルドの腕が、脇を力強く支え上げる。
二人の靴底が診察場の床を踏みしめたとき、私は胸に抱え込んでいた道具をやっと床へ下ろした。
ヴァルドは、まだ私の肩から手を離さない。
「立てるか」
「立ってます」
「そうは見えぬが」
膝が情けなく震えていた。口元はまったく笑えていないのに、足だけが勝手に笑っている。ずいぶん不公平な体だ。
差し出された低い腰掛けへ、崩れるように座り込む。
少し離れた作業椅子では、ドルガが下顎を押さえたまま、じっと足元を見つめていた。その爪先には、白い停止石が一つ、転がっている。
「……止めてくれたんですね」
「口の中で、二人を噛み潰すところだった」
ドルガの指先が、かすかに震えていた。落ちた石を拾おうと手を伸ばしかけたので、ミラが先にそれを拾い上げ、椅子の肘掛けへそっと置いた。
「坑夫は」
ドルガの問いに、ヴァルドが答えた。
「全員、地上へ退避させた。採掘も止めてある」
ドルガは一度だけ深く目を閉じた。
見れば、ヴァルドの袖口には、綱で強く擦れた白い跡が残っていた。
「握っていた綱、どうなったんですか」
「手の中から滑り落ちた。引き戻そうとしたが、それより早く、あの穴が石へと戻ってしまったのだ」
「それで、壁を叩いた?」
「ドルガが音を通せと言った。余がいくら怒鳴るより、石を伝う音のほうが届くとな」
私は床へ置いた鉄杭を拾い上げた。ミラの帯と私の腰を繋ぐ綱は、まだ結ばれたままだ。これを解くのは、指先の震えがもう少し落ち着いてからでいい。
記録板を膝の上に置く。
消えていた道の線が、いつの間にか元の濃さで戻っていた。
「ミラ」
呼ばれた彼女も、懐から地図を開いた。
白い空白ばかりだった紙の上に、入口からの線が一本、確かに伸びている。
ただし――古い支保材を示す印のところで不自然に折れ曲がり、ドルガが顎を押さえて呻くたび、その線は少しずつ、削られるように短くなっていた。
「書いた線が、今も動いてる……」
私はその地図から目を上げ、ドルガの固く結ばれた口元を見つめた。
図面ではなく、目の前にいるその人を。
「あなたがあのとき噛み締めていたのって、何を押し戻すためだったんですか」




