第40話 鉱王の虫歯は、地図を食べる
地図が間違っているとき、正しいのは壁である。
「昨日まで壁ではなかった場合は?」
私が聞くと、測量師ミラは白墨を一本、折った。
「今日の壁が正しい」
「明日、道に戻ったら?」
「明日、引き直す」
迷いがない。地図を信じていないのではなく、地図を完成品だと思っていないのだ。
鉱王ドルガの右下奥歯は、大坑口のさらに下にあった。人の姿のドルガが作業椅子へ座り、口を開く。歯そのものは人間より少し大きい程度だが、表面へ細い鉱脈の光が走っている。一本の歯から、地の底へ根が伸びているように見えた。
「触れる前に、痛み方を聞きます」
「第三坑、支え十七本」
答えは土地のほうへ先に落ちた。依頼書と同じ順番だった。
「土地ではなく、あなたの歯です」
ドルガは口を閉じかけ、また開いた。
「鈍痛。二十一日前。振動で増す」
「今は?」
「作業可能」
「痛い、痛くないで」
ドルガが黙った。壁を叩こうと指を上げる。作業椅子に壁はない。行き場を失った指が、肘掛けを二度叩いた。ごん、ごん。石を確かめる間隔だった。
「痛い」
短い。土地の損傷より遅れて、いまの自分のほうへ言葉が届いた。
「止めたくなったら、この石を落としてください」
掌へ白い小石を置く。石の重さだけが、先にドルガの指へ入った。
「落とせば、坑夫が残る」
「あなたが意識を失っても残ります」
「なら同じだ」
「違います。意識があるうちなら、撤退の指示も出せる」
ドルガは小石を握った。落とす約束はしなかった。受け入れたのか、支柱のまま座ると決めたのかは、分からない。診察への同意だけを取り、入口の輪を歯へ当てる。輪の内側へ、暗い坑道が開いた。
精霊王の歯では四季の森。海王の歯では潮の水路。獣王の牙では五十七本の返事の道。鉱王の歯の中は、石の坑道だった。
「余は入れぬ」
ヴァルドが輪の外で言う。
「知ってます」
「命綱は余が持つ」
「停止役はミラです」
ミラが入口の鉄杭へ綱の外端を結び、ヴァルドがその手前を握った。ミラは結び目を二度引いて固定を確認した。
「外の保護は余が担う」
「はい」
「リタ」
「退路が一つになったら戻ります」
言われる前に答える。ヴァルドの眉間の溝が、わずかに浅くなった。
私は可動鏡、節付き測り針、記録板だけを持った。刃と接合材は外へ残す。診断前に治療道具を持ち込めば、使いたくなる。
入口の輪をくぐる。足元は黒い石だった。坑道の幅は、人が二人並べるほど。天井には白い鉱脈が走り、ドルガの心臓に合わせてかすかに明滅している。ミラが後ろから入った。壁へ白墨点を一つ置く。
「入口、零層、現在確認」
「地図では?」
「直線、四十歩。その先で左右」
私が歩数を取り、ミラが壁を見る。二十歩。右の壁に、古い支保材が一本埋まっていた。補修履歴の一回目。十二年前。木ではない。鉱王自身の石皮を薄く削り、三本の帯で壁へ固定してある。記録通りだった。記録板へ、二十歩、第一支保材、と書く。
三十歩目。二本目の支保材。七年前。帯の締め方も、石皮の色も、一度目と揃っている。記録板へ、三十歩、第二支保材。
四十歩。左右の分岐はなかった。正面の壁だけが、冷たい風を吐いている。
ミラは驚かず、壁へ耳を当てた。
「向こうに空間。東へ七歩、二層下」
「地図を書き直す?」
「壁を確かめてから」
節付き測り針を隙間へ入れる。一節。二節。三節。四節目で、手応えが消えた。壁は指一本ぶんの厚さしかない。削る許可は取っていない。
「外から開けられる場所を探します」
来た道へ振り返った。入口の光が見えない。暗いからではない。一本道だった坑道が、後ろで左右に分かれていた。私は四十歩目の正面壁前にいて、ミラも壁から耳を離したところだった。退路は、さっきまで一本だった。
「ミラ」
「確認する」
彼女は足元の地図を開く。入口から四十歩。左右分岐。さっきまで、そう描かれていた。今は違う。入口から二十歩で、線が途切れていた。第一支保材の手前で、道そのものが白紙に戻っている。
「消した?」
「触っていない」
ミラが白墨を持つ右手を見せた。私も記録板を見る。二十歩、第一支保材。三十歩、第二支保材。自分で書いた文字は残っている。けれど、その横へ写した道の線だけがない。紙の表面は削れていなかった。炭が落ちた跡もない。初めから、そこに線などなかったように消えていた。
壁は残っている。支保材も残っている。消えたのは、紙の上の道だけだ。
「戻ります」
私は命綱を一度引いた。返事がない。二度。綱は軽くなるだけだった。外でヴァルドが握っているはずの重みもない。手元へ引き寄せる。切れてはいない。先端には、ミラが入口へ打った鉄杭が結ばれたまま付いていた。杭ごと、歯の中へ来ていた。入口側の固定点が、もう外にない。
退路が一つになったら戻る。そう約束した。今は、一つもない。
正面の薄い壁の向こうで、石を二度叩く音がした。ごん、ごん。鉱王ドルガの癖と、同じ間隔だった。けれどドルガ本人は、入口の外にいる。誰が叩いたのか、こちらからは見えない。
ミラが足元の地図の空白へ、新しい白墨点を打つ。
「現在地、不明。今、確認」
地図を見下ろす。入口の線はない。四十歩の線もない。残っているのは、いま打った白い点だけだった。




