第39話 次の患者は、依頼書を先に読んだ
治療の同意を、自分から先に読む患者は少ない。
その同意を二十七枚、欠かさず自分の手で埋めてくる患者は、さらに少ない。
山岳輸送所の机の上で、鉱王からの束は思ったより厚かった。症状、補修歴、坑道図、圧力の記録。欠けを探す方が遅くなるほど、欄は埋まっていた。
一度だけ、肩の力が抜けた。
理想的な依頼に見えた。自分の口の中を、国土と同じ丁寧さで書いてきた患者の依頼に。
ヴァルドは束を窓の日へ透かした。
「紙は厚いですよ」
「透かしを見ておる」
鉱王領の印が、紙の中央に浮かんだ。山の下へ落ちる太い一本線。左右に、支柱を示す短い線が六本。
偽造ではなかった。
揃っている、と思った次に、空白の形へ目が止まった。
途中でやめる場所が、書き忘れられていたのではなかった。欄そのものが、最初からなかった。
「忘れたのではない」
ヴァルドの声は、問いというより既知だった。
「鉱人は、一度支えた坑道を途中で放り出すことを嫌う」
「患者は坑道じゃありません」
「ドルガならば、自分も国土を支える柱と数える」
ヴァルドは鉱王の名を、知っている口ぶりだった。
私は症状記録を開いた。知っているのは、紙の上の歯と、紙の上の山だった。
右下奥歯。鈍痛は二十一日前から。振動のたびに増悪。過去の補修は三回。欠損なし。発熱なし。
国土の側では、第三坑道の圧力上昇、鉱脈図の誤差、支保材の破断が計十七本。
足りない情報は少なかった。
いま、本人の口の中がどう感じているか、という一行を除けば。
紙が厚いほど、その一行は目立った。
いま署名する手が、あとから「やめたい」と言う口を、先に閉じてしまう。
「返事を出します」
「断るのか」
「条件を足します。診察の途中でも撤回できる。こちらが危険と判断すれば止める。記録が古い場合は、現地を優先する」
「王へ条件を出すか」
「王様相手に慣れました」
「誰のせいだ」
「最初に工具店へ来た、白髪の老人です」
ヴァルドは何も返さなかった。
机の向こうで、視線だけが一度落ちた。
ネッサの運び手会を中立の受領者にして、条件書を送った。
一刻後、石筒が戻ってきた。
同じ二十七枚に、二十八枚目が加わっていた。
追加条件、了承。
ただし末尾に、太い字で一文ある。
――現場へ入った後の撤回は、坑夫の撤退完了後とする。
「了承していませんね」
「坑夫を置いて自分だけ止まれぬ、という意味であろう」
「それを誰が決めるかです」
私は二十八枚目の余白へ、未合意、と書いた。
ペン先が紙を一度だけ引っ掻いた。
完璧な書類は、完璧な同意ではなかった。
文字が揃っているほど、抜けた一つは、患者本人の顔に見えにくくなる。
「行きます」
ヴァルドが私を見た。
「決めたのか」
「現場と患者を見ます。診察するかは、その後です」
「余も行く」
「理由は」
「鉱王の歯が崩れれば、地下圧が竜王領の火山脈まで届く」
「守るため?」
「それだけでは不満か」
「私を運ぶため、が入っていなければ」
彼は一瞬だけ目を細くした。
距離は、机の幅のままだった。
「そなたを運ぶ。余が入れぬ場所では待つ。停止役は現地で別に決める」
命令ではなかった。同行の条件だった。
「分かりました」
「許可するのか」
「申請を受けました」
「ネッサに似てきたぞ」
あまり嬉しくない評価だった。
それでも、前の旅で決めた手順が、いまは申請の言葉として置けた。
三日後、私は再びヴァルドの背にいた。
固定帯は新品だった。工具鞄は前後二本で留め、箱の中身は出発前に一覧と照らした。危険な証拠は、中立の運び手会と輸送所の二者保管へ移し、私たちの携行品から外した。鉱王領には持ち込まない。
旅程は二人で一本。
選んだ理由は、別々のままだった。
『落ちるなよ』
「落とさないでください」
『工具を先に拾うな』
「患者がいないときは考えます」
『考えるな』
風が耳の後ろで鳴った。同じやりとりが、注意書きではなく口の位置に来ていた。
山岳地帯を越えると、地面の色が灰色に変わった。
森が途切れ、岩壁に四角い穴が無数に開いている。坑道の入口だった。荷車が蟻の列のように出入りし、白い粉をまとった坑夫たちが支柱を運んでいた。
中央の大坑口には、折れた石柱が十七本、地面に並べてある。
依頼書の数字と同じだった。
ヴァルドが坑口前へ降りた。
黒い巨体が熱と煙に包まれ、人の姿へ変わった。
靴底に、すぐ石粉がついた。
迎えたのは王冠ではなく、灰色の作業帽をかぶった大男だった。
皮膚は岩のようにひび割れ、腕には白い測量線が何本も引かれている。
挨拶より先に、彼は坑道の壁へ指を当て、二度叩いた。
ごん、ごん。
奥から返った音を聞き終えてから、私へ頭を下げた。
「鉱王ドルガだ。第三坑、支え十七本破断。未帰還者、零。交代まで二刻」
数字から入る男だった。坑道と、支えと、残っている人数から。
「リタ・アルデンです。まず確認があります」
二十八枚目を開く。紙が坑口の風で一度めくれた。
「治療は、途中でもやめられます」
「署名した」
「署名した後でもです」
ドルガの石の眉が、わずかに動いた。
「仕事を請けて、途中で手を放すのか」
「患者が止めたいと言ったら」
「俺は言わん」
「今のあなたが、後のあなたの口まで塞ぐことはできません」
鉱王は、また壁を二度叩いた。
今度の反響は、一つ目より浅かった。
「坑道が変わった」
彼が振り返る。
入口の奥で、白い粉をまとった女が地図を広げていた。
指先は縮尺ではなく、方角と深さに乗っていた。
「東へ十二歩、二層下。今朝までは壁でした」
女の指した場所には、昨日の日付で閉鎖と書かれている。
その向こうから、冷たい風が吹いていた。昨日まで壁だった場所から。
「測量師ミラです」
彼女は古い線を、迷わず消した。現場の時刻で、紙の上の昨日を消す手つきだった。
「王の歯に入る道が、また一本増えました」




