第38話 同じ道具箱を、二人で開ける
ヴェラの歯は、削らずに支えることになった。
ひびの両側へ薄い留めを渡し、噛む力を顎帯の左右へ逃がす。治療は一刻。休みは二日。五本の路線は、その間も六人と三台と一頭で動く。
「一頭は余か」
ヴァルドが運行表を見て言った。
「一頭です」
ネッサは訂正しなかった。
「王都へ戻る用がある」
「北峠、午前。王都、午後。速度上限あり」
「余を何だと思っておる」
「空きへ入る運び手」
ヴェラが低く笑った。竜の笑い声は、荷車が石道を下る音に似ていた。
治療後の彼女は右顎を下げず、左右の帯へ同じ重さを預けている。休むと決めてからのほうが、出発時刻を気にする回数は減った。ゼロにはなっていない。三回が二回になった程度だ。人は一度の治療で別人にはならない。竜も同じらしい。
私とヴァルドも、同じだった。
封印を解いた工具箱は、修理場の中央に置かれていた。蓋は開いている。中の並びは昨日のままなのに、二人とも先に手を伸ばさなかった。
「昨日の三本目」
私が言った。
「二回で止まりましたね」
「三回目を待てば、森を焼いておった」
ヴァルドは運行表から視線を外さない。短く、自分の側へ寄せる言い方だった。
「分かってたんですか」
「二回目でな」
「一回目は」
「そなたとヴェラしか見ておらなんだ」
正直な答えだった。正直なら、腹が立たないわけではない。けれど昨日と同じ言い合いへ戻すのは、箱を閉じて放置するのと同じだ。
私は記録紙を一枚取り、開いた蓋の上へ置いた。紙が工具の縁に当たって、乾いた音を立てる。
「だから、口約束をやめます」
「余へ誓約書を書けと?」
「手順書です。私にも同じだけ書く」
「余が責任を取る、では足りぬ、か」
「足りません。取る側が一人だと、止める側がいなくなります」
炭棒で、紙を三本の線に区切った。
一つ目。
「診察、治療、記録共有は、別々に同意を取る。途中で変えていい」
ヴァルドが続けた。
「王命で同意の代わりとせぬ」
私が書く。文字は小さい。隣に、彼の字が入る余白を空けておく。
二つ目。
「危険な証拠は、存在、保管者、閲覧できる人、次に確認する期限まで一覧へ入れる」
ヴァルドの手が胸元へ動き、途中で止まった。指先は布の下の何かに触れていない。触れる寸前で、戻された。
「余が持つ物もか」
「何を持っているかは、今ここで聞きません。でも存在を隠したまま私の行き先を決めるのは駄目です」
長い沈黙のあと、彼はうなずいた。修理場の奥で、誰かが金具を叩く音だけが続いた。
「物証一。余が携行。内容は閲覧保留。三日以内に中立の保管者を定める」
「保留の理由も」
「そなたの家族へ関わる可能性があり、未確認のまま渡せば追跡へ使う恐れがある」
父の名前は出なかった。何が刻まれているかも。危険だから知らせない、の一行よりは、紙に残る情報が増えただけだ。
私はそのまま書いた。
「三日後、私が閲覧を求めるか決めます。拒否するなら理由を更新する」
「よかろう」
「私の炭写し二枚は、一枚を輸送所の保管箱へ。もう一枚は私が持つ。証拠受けも一覧へ」
ヴァルドが書き加える。太い線が、私の行の下で一度止まった。同じ量になるまで、欄を揃えていた。
三つ目。
「停止役を、当事者の外へ置く」
「停止役が常に正しいとは限らぬ」
「だから理由を聞く。でも先に止まる」
「停止後、患者、治療者、周囲の危険を見直す」
「どちらかが続行を拒否したら?」
「続けぬ」
答えは速かった。私は炭棒を止めた。
「王様でも?」
「王だからこそだ」
母は、自分で命綱を切った。ヴァルドは境界の外にいて、止められなかった。私たちは、あの事故のすべてをまだ知らない。同じ失敗をしない方法も、たぶんこれだけでは足りない。
それでも紙の上には、前より一人多く、止められる者がいた。ネッサの名を停止役の候補に書くとき、私は一度だけ顔を上げた。ネッサは運行表の端を押さえているだけで、こちらを説明しようとはしなかった。
私は最後に、自分の欄を作った。
「治療者リタ。患者の許可があっても、退路が一つしかない治療へ一人で入らない」
ヴァルドがこちらを見る。視線は短い。距離は、保護するというより、同じ紙を読む距離だった。
「書いて終わりにするな」
「あなたもです」
「余は守るためでも、本人の選択を先に奪わぬ」
「書いてください」
「余の字は大きい」
「空けてあります」
太い字が、私の行の隣へ入った。署名欄は二つ。日付も二つ。謝罪の言葉はなかった。私も言わなかった。
六日前に選んだ南と北の地図が、間違いだったとも思わない。一度離れなければ、私は助けを求められなかった。彼も、患者の許可を王命から外せなかった。正しさは、どちらも残したままにした。
「次に行く場所は、自分で決めます」
「余も同行するか、自分で決める」
「私が断るかもしれません」
「余も断るかもしれぬ」
「面倒ですね」
「身体はだいたい面倒なのであろう」
私の言葉を使った。腹が立つ。少しだけ、笑った。ヴァルドも喉の奥で、岩を転がすような音を出した。
蓋はまだ開いたまま、手順書だけが箱の上に残っている。同じ道具を、今度は順番を決めて使うための紙だった。
そのとき、輸送所の伝書筒が鳴った。ネッサが封筒を一本抜き、宛名を見る。
「歯医者リタ・アルデン。竜王ヴァルド。連名」
「誰からです」
「鉱王ドルガ」
封筒は石のように重かった。中から出てきたのは、依頼書、症状記録、過去の補修一覧、立入許可、治療同意書。全部で二十七枚。紙の角は揃い、墨も滲んでいない。
「話の早い患者ですね」
「そうか?」
ヴァルドが最後の紙を持ち上げた。同意書には署名欄があった。治療範囲も、危険も、記録共有先も書いてある。欠けているのは一つだけだった。
途中でやめる欄だけが、どこにもなかった。




