第37話 停止綱は、竜王のためにある
停止綱は三本ある。
一本目は、患者が止まりたいとき。
二本目は、治療者が危険を見つけたとき。
三本目は、二人とも止まれないとき。
だから三本目を持つのは、いちばん強い者ではない。
「なぜ余ではない」
竜王ヴァルドが、三度目に聞いた。
「聞いてませんでした?」
「聞いた。納得しておらぬ」
「納得しなくても、従うって昨日決めました」
「余が決めた覚えはない」
試験塔の上で、ネッサが三本目の赤い綱を手首へ巻いた。
「署名がある」
板を向ける。
運び手――ヴァルド。
速度上限、風速上限、停止合図への服従。
太い字で署名してあった。
「余は署名という物が嫌いになりそうだ」
「便利」
ネッサは昨日と同じ言葉で片づけた。
ヴェラの新しい顎帯は、右だけで顎を吊らない。
トルカが首の後ろへ広い革を渡し、翼を打つたび左右の輪が少し滑る構造へ変えた。右奥歯には弱い支えを当て、ひびが開けば顎帯の赤札が落ちる。
私はヴァルドの背に乗り、ヴェラと並んで飛ぶ。
腰の綱は前後二か所へ固定した。
空から落ちた経験は、ようやく安全対策の一つになった。
『手を離すな』
ヴァルドの声が背中から響く。
「患者を見ます。あなたの鱗は見飽きました」
『五日前は余の顔を見ろと言っておったが』
「今は仕事中です」
ヴェラが翼を開いた。
「北峠手前まで。空荷。六分」
一本目の綱はヴェラの前脚へ、二本目は私の腰へつながる。三本目だけは細い合図糸を通じ、塔のネッサが引けば二頭の顎帯とヴァルドの胸帯へ振動が届く。
飛び立つ。
一周目。
新しい帯は滑らかに動いた。
右の翼を打っても、顎だけが持ち上がらない。ヴェラの首は左右へ少し揺れ、それから自分で中央へ戻る。
「痛みは?」
「北棚、遅れなし」
「それは痛くない?」
「はい」
答えが一語ぶん短くなった。
二周目。
北峠から横風が落ちてきた。
予定の上限より、少し強い。
ヴァルドが翼を傾ける。ヴェラも続く。
新しい帯の左右輪が、同時に滑った。
次の瞬間、乾いた音がした。
新しい革ではない。
右顎へ残していた古い金具の根元が、内側から裂けた。
「ヴェラ、停止!」
私が二本目を引く。
合図は腰から前脚へ走った。ヴェラは翼を畳もうとした。
切れた右帯が風をはらみ、顎を横へ引く。痛みを逃がそうと首を振る。その動きで左帯まで締まり、口が強く閉じた。
赤札が落ちる。
札は風に一度裏返り、針葉の上へ落ちていった。ひびが開いた、と同時に分かった。
『リタ、綱を外せ!』
ヴァルドがヴェラの下へ入る。
腹ではなく、落下の線へ身体を重ねる位置だった。
北峠の下には、乾いた針葉樹の森が広がっていた。
鱗の隙間で、赤い光が強くなる。
熱で上昇気流を作れば、ヴェラを持ち上げられる。
けれど、それをすれば森が燃える。
「火は駄目!」
『このままでは歯が折れる』
「ヴェラ、着地先を選んで!」
「北の岩棚」
痛みで声が途切れた。
「薬便が使う。塞げない」
『ならば余が押し上げる』
赤い光がさらに増す。熱が背中の鱗を伝い、固定した腰の綱まで熱くなった。
三本目の綱が、一度引かれた。
胸帯を通じて、ヴァルドの巨体がわずかに揺れる。赤い光は消えない。下のヴェラから目が離れていない。
二度目。
振動は同じ強さだった。今度は翼の角度が先に変わった。赤い光が鱗の奥へ引き、熱が薄れる。
押し上げない。落下の速さを合わせるほうへ、翼を閉じ始めた。
『岩棚を空けよ』
塔へ向けて吠える。
ネッサの返事は、合図糸を三回軽く打つ音だった。
北便を止めた。
村への到着が遅れる。
彼女は、それを選んだ。
「トルカ、左を外します!」
地上から伸びた白い合図布が、一度上がる。
外せ。
私は革鋏を抜いた。
ヴァルドがヴェラの腹側へ身体を寄せる。持ち上げない。落下速度だけを合わせる。
右の切れた帯は風に鳴ったまま、顎を横へ引き続けていた。左だけが、口を閉じさせている。
「ヴェラ。左帯を切る。顎は自由になる。身体の支えは減る」
「切って」
許可を聞いた。
刃を入れる。
左帯が外れた。
ヴェラの顎が下がり、噛みしめが解ける。赤札を落とした弱い支えも歯から離れた。
彼女は一度大きく翼を打った。
今度は顎で支えない。
右へ傾く。
ヴァルドが翼の下へ肩を入れ、押さずに風だけを受けた。
二頭は並んで高度を落とす。
北の岩棚が近づいた。
荷台も薬箱もない。空いた石の縁だけがある。
ヴェラは空いた場所を確かめてから脚をついた。
ヴァルドが隣へ降りる。
私は背中から飛び降りかけ、固定綱に止められた。
「ぐえっ」
『学習せぬな』
「今のは急いだんです!」
綱を外し、ヴェラへ走る。
口を開けてもらい、可動鏡だけを入れた。ひびは指の爪の長さから、紙一枚ぶん伸びている。折れてはいない。
「今日は飛べません」
ヴェラは時計を探した。
岩棚に時計はない。
代わりに、遠くの塔で木札が動く音が合図糸から届いた。
「北便は?」
「一刻遅れる」
ネッサの声が伝声筒から響く。
「薬は届く。あなたは休め」
ヴェラは長く息を吐いた。
「北峠、一刻遅れ」
「はい」
「私の痛みは?」
初めて、自分から聞いた。
荷の順でも、棚の名でもなく。
「今は、飛ばないほうが一刻より軽いです」
ヴェラは顎帯へ舌を伸ばしかけた。
そこに金具はもうない。
舌を戻し、岩棚へ身体を伏せた。
「一本休む」
停止綱は、患者を止めた。
私も止めた。
そして三本目は、世界最強の竜王を止めた。
誰も燃えず、薬は一刻遅れで届いた。




