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竜王の歯医者ですが、虫歯一本がダンジョンになっています  作者: sakumaaa
第五章 守るための決裂

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第37話 停止綱は、竜王のためにある

 停止綱は三本ある。

 一本目は、患者が止まりたいとき。

 二本目は、治療者が危険を見つけたとき。

 三本目は、二人とも止まれないとき。

 だから三本目を持つのは、いちばん強い者ではない。


「なぜ余ではない」

 竜王ヴァルドが、三度目に聞いた。

「聞いてませんでした?」

「聞いた。納得しておらぬ」

「納得しなくても、従うって昨日決めました」

「余が決めた覚えはない」


 試験塔の上で、ネッサが三本目の赤い綱を手首へ巻いた。

「署名がある」

 板を向ける。

 運び手――ヴァルド。

 速度上限、風速上限、停止合図への服従。

 太い字で署名してあった。

「余は署名という物が嫌いになりそうだ」

「便利」

 ネッサは昨日と同じ言葉で片づけた。


 ヴェラの新しい顎帯は、右だけで顎を吊らない。

 トルカが首の後ろへ広い革を渡し、翼を打つたび左右の輪が少し滑る構造へ変えた。右奥歯には弱い支えを当て、ひびが開けば顎帯の赤札が落ちる。

 私はヴァルドの背に乗り、ヴェラと並んで飛ぶ。

 腰の綱は前後二か所へ固定した。

 空から落ちた経験は、ようやく安全対策の一つになった。


『手を離すな』

 ヴァルドの声が背中から響く。

「患者を見ます。あなたの鱗は見飽きました」

『五日前は余の顔を見ろと言っておったが』

「今は仕事中です」


 ヴェラが翼を開いた。

「北峠手前まで。空荷。六分」


 一本目の綱はヴェラの前脚へ、二本目は私の腰へつながる。三本目だけは細い合図糸を通じ、塔のネッサが引けば二頭の顎帯とヴァルドの胸帯へ振動が届く。


 飛び立つ。


 一周目。

 新しい帯は滑らかに動いた。

 右の翼を打っても、顎だけが持ち上がらない。ヴェラの首は左右へ少し揺れ、それから自分で中央へ戻る。

「痛みは?」

「北棚、遅れなし」

「それは痛くない?」

「はい」

 答えが一語ぶん短くなった。


 二周目。

 北峠から横風が落ちてきた。

 予定の上限より、少し強い。

 ヴァルドが翼を傾ける。ヴェラも続く。

 新しい帯の左右輪が、同時に滑った。


 次の瞬間、乾いた音がした。

 新しい革ではない。

 右顎へ残していた古い金具の根元が、内側から裂けた。


「ヴェラ、停止!」

 私が二本目を引く。

 合図は腰から前脚へ走った。ヴェラは翼を畳もうとした。

 切れた右帯が風をはらみ、顎を横へ引く。痛みを逃がそうと首を振る。その動きで左帯まで締まり、口が強く閉じた。

 赤札が落ちる。

 札は風に一度裏返り、針葉の上へ落ちていった。ひびが開いた、と同時に分かった。


『リタ、綱を外せ!』

 ヴァルドがヴェラの下へ入る。

 腹ではなく、落下の線へ身体を重ねる位置だった。

 北峠の下には、乾いた針葉樹の森が広がっていた。

 鱗の隙間で、赤い光が強くなる。

 熱で上昇気流を作れば、ヴェラを持ち上げられる。

 けれど、それをすれば森が燃える。


「火は駄目!」

『このままでは歯が折れる』

「ヴェラ、着地先を選んで!」

「北の岩棚」

 痛みで声が途切れた。

「薬便が使う。塞げない」

『ならば余が押し上げる』

 赤い光がさらに増す。熱が背中の鱗を伝い、固定した腰の綱まで熱くなった。


 三本目の綱が、一度引かれた。

 胸帯を通じて、ヴァルドの巨体がわずかに揺れる。赤い光は消えない。下のヴェラから目が離れていない。

 二度目。

 振動は同じ強さだった。今度は翼の角度が先に変わった。赤い光が鱗の奥へ引き、熱が薄れる。

 押し上げない。落下の速さを合わせるほうへ、翼を閉じ始めた。


『岩棚を空けよ』

 塔へ向けて吠える。

 ネッサの返事は、合図糸を三回軽く打つ音だった。

 北便を止めた。

 村への到着が遅れる。

 彼女は、それを選んだ。


「トルカ、左を外します!」

 地上から伸びた白い合図布が、一度上がる。

 外せ。

 私は革鋏を抜いた。

 ヴァルドがヴェラの腹側へ身体を寄せる。持ち上げない。落下速度だけを合わせる。

 右の切れた帯は風に鳴ったまま、顎を横へ引き続けていた。左だけが、口を閉じさせている。


「ヴェラ。左帯を切る。顎は自由になる。身体の支えは減る」

「切って」

 許可を聞いた。

 刃を入れる。

 左帯が外れた。

 ヴェラの顎が下がり、噛みしめが解ける。赤札を落とした弱い支えも歯から離れた。

 彼女は一度大きく翼を打った。

 今度は顎で支えない。

 右へ傾く。

 ヴァルドが翼の下へ肩を入れ、押さずに風だけを受けた。

 二頭は並んで高度を落とす。

 北の岩棚が近づいた。

 荷台も薬箱もない。空いた石の縁だけがある。

 ヴェラは空いた場所を確かめてから脚をついた。

 ヴァルドが隣へ降りる。

 私は背中から飛び降りかけ、固定綱に止められた。

「ぐえっ」

『学習せぬな』

「今のは急いだんです!」


 綱を外し、ヴェラへ走る。

 口を開けてもらい、可動鏡だけを入れた。ひびは指の爪の長さから、紙一枚ぶん伸びている。折れてはいない。

「今日は飛べません」


 ヴェラは時計を探した。

 岩棚に時計はない。

 代わりに、遠くの塔で木札が動く音が合図糸から届いた。

「北便は?」

「一刻遅れる」

 ネッサの声が伝声筒から響く。

「薬は届く。あなたは休め」


 ヴェラは長く息を吐いた。

「北峠、一刻遅れ」

「はい」

「私の痛みは?」

 初めて、自分から聞いた。

 荷の順でも、棚の名でもなく。

「今は、飛ばないほうが一刻より軽いです」

 ヴェラは顎帯へ舌を伸ばしかけた。

 そこに金具はもうない。

 舌を戻し、岩棚へ身体を伏せた。

「一本休む」


 停止綱は、患者を止めた。

 私も止めた。

 そして三本目は、世界最強の竜王を止めた。

 誰も燃えず、薬は一刻遅れで届いた。

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