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竜王の歯医者ですが、虫歯一本がダンジョンになっています  作者: sakumaaa
第五章 守るための決裂

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第36話 道具箱を開ける鍵は、命令ではない

 ヴェラの右奥歯には、斜めのひびが一本あった。長さは指の爪ほど。深さは、鏡だけでは分からない。黒い異物は見えない。見えないことは、無い証拠にならない。


「今すぐ飛べなくなる?」


 ヴェラが聞いた。


「今すぐ折れるとは言えません。折れないとも言えない」


「南棚、空荷」


「今の帯では勧めません」


「直した帯なら?」


 私はトルカを見る。彼は新しい顎帯を両手で曲げ、首が逃げる部分を確かめていた。


「噛みしめる力は半分以下にできる。歯のひびは治らない」


「飛べる」


「条件つきです」


 私は記録板を三つに区切った。診察。治療。記録共有。


「今日、許可をもらったのは診察の一部だけです。次に決めるのは、帯を替えて空荷で試すか。歯を支える治療をするか。結果を運び手会と共有するか」


「全部一度に決めない?」


「決めません」


「面倒だな」


「身体はだいたい面倒です」


 ヴェラは顎帯の内側を舌で一度叩いた。迷っている音だった。


 可動鏡なら、ひびの角度を変えて見られる。測り針と合わせれば深さも推定できる。弱い支えは、治療前の試験に使える。可動鏡と弱い支えは封印箱の中だ。節付き測り針は、四日前から私の腰に残っている。


 私は箱の前へ座った。


 赤い封蝋には、竜王家の印が二つ押されている。紐は交差し、どちらか一方を切っても蓋は開かない。


「開けます」


 ヴァルドが腰の短剣へ手をかけた。


「余が切ろう」


「私が開けます」


「封じたのは余だ。責任も」


「中身を使うのは私です」


 言葉がぶつかり、二人とも止まった。四日前なら、ここからどちらが決めるかの争いになった。箱の中身が必要な患者は、すぐ横にいるのに。


 私は一覧表を箱の上へ置いた。紙の端が封蝋に触れないよう、指で押さえる。


「封印を切る人と、中身を確認する人を分けます」


 ヴァルドの手が、まだ柄の上にあった。


「あなたが切る。私とネッサが一覧を読む。ヴェラは、使っていい物を決める」


「余が開封を止めた場合は」


「理由を記録する。私が同意しなければ開けない」


「そなたが危険な物まで出そうとした場合は」


「ネッサが止める」


 ネッサは壁から一枚の木札を外した。札の文字を、箱へ向ける。


「封印箱。開封二人、確認二人、使用は患者」


「四人ではないか」


「役割は三つ」


 ヴァルドの眉間に溝ができた。短剣を抜く音は短かった。刃ではなく、柄を私へ向けた。


「切る場所を選べ」


 命令ではなかった。


 私が紐の交点を指す。彼は一つ目の封蝋へ刃を入れた。


 赤い蝋が割れる。私の胸の奥でも、三日間固まっていた何かが少しだけ割れた。


 二つ目。蓋が浮く。中には、一覧通りの道具が並んでいた。可動鏡一。替え刃六。接合材二。弱い支え一。命綱三。記録紙十二。


 私は一本ずつ取り出し、ネッサが読み、ヴァルドが封じたときの傷を答える。傷の位置は、一覧の欄外に落ちていった。


 最後に空の溝が一つあった。


「ここには?」


 指でなぞる。溝の縁は、ほかより少しだけ摩耗している。


「初めから空だ」


 ヴァルドの答えは短かった。小金具の形とは違う。私が持つ欠けた証拠受けが入っていた場所だ。嘘ではない。全部を話したわけでもない。


 私は空欄へ書いた。証拠受け――リタ携行。


「危険な証拠も、次から一覧へ入れます」


「……よかろう」


「今、決めるのは次からです。過去を許したとは言ってません」


「知っておる」


 同じ答えだった。今度は少し、苦かった。


 ヴェラの許可を取り、箱から可動鏡だけを出した。節付き測り針は腰から抜く。刃と接合材は箱へ残す。長柄鏡で見つけたひびへ、可動鏡の角度を合わせる。測り針は歯へ触れず、鏡面に映る影の幅だけを測った。


「ひびは表面だけではありません。根元へ向かって斜めに入っています」


「削る?」


「削りません。まず外から支え、飛行でひびが動くか見る。動くなら治療が必要です」


「試す」


「危険があります」


「聞く」


 以前のヴェラなら、時間だけを聞いた。今は危険を聞くと言った。


 私は弱い支えを手に取る。精霊王の葉を芯へ使った、力がかかればたわむ輪だ。箱の外へ出しても、まだ使わない。見せるだけにする。


「これは歯を治しません。ひびの動きを外へ伝えるだけです。大きく開けば輪が外れ、顎帯の赤札が落ちる」


「落ちたら着地」


「私の合図でも」


「ネッサの合図でも」


 ヴァルドが言った。


 私は彼を見る。短剣はすでに腰へ戻っていた。手が空いているのに、まだ責任の置き場を探している目だった。


「あなたの合図は?」


「余にも要るのか」


「一番要ります」


 ネッサが木札を一枚動かした。


「停止綱を三本。患者、治療者、外部役」


「竜王は?」


「外部役の指示に従う」


 ヴァルドはしばらく黙った。箱の蓋へ視線を落とし、それからネッサの札へ移す。


「余へ飛び方を命令するな」


「路線規則です」


「その言葉を気に入ったのか」


「便利」


 私は笑いそうになった。まだ、笑う場面ではない気もした。けれど口元は少し動いた。ヴァルドがそれを見たかは分からない。


 彼は三本目の停止綱を取り、ネッサへ渡した。綱の端が掌に残るあいだだけ、指が一度止まった。


「明朝、試す。余も飛ぶ」


「命令ですか」


「申請だ」


 ネッサが即座に答えた。


「速度上限を守るなら、許可」


 竜王の眉間に、今日いちばん深い溝ができた。

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