第36話 道具箱を開ける鍵は、命令ではない
ヴェラの右奥歯には、斜めのひびが一本あった。長さは指の爪ほど。深さは、鏡だけでは分からない。黒い異物は見えない。見えないことは、無い証拠にならない。
「今すぐ飛べなくなる?」
ヴェラが聞いた。
「今すぐ折れるとは言えません。折れないとも言えない」
「南棚、空荷」
「今の帯では勧めません」
「直した帯なら?」
私はトルカを見る。彼は新しい顎帯を両手で曲げ、首が逃げる部分を確かめていた。
「噛みしめる力は半分以下にできる。歯のひびは治らない」
「飛べる」
「条件つきです」
私は記録板を三つに区切った。診察。治療。記録共有。
「今日、許可をもらったのは診察の一部だけです。次に決めるのは、帯を替えて空荷で試すか。歯を支える治療をするか。結果を運び手会と共有するか」
「全部一度に決めない?」
「決めません」
「面倒だな」
「身体はだいたい面倒です」
ヴェラは顎帯の内側を舌で一度叩いた。迷っている音だった。
可動鏡なら、ひびの角度を変えて見られる。測り針と合わせれば深さも推定できる。弱い支えは、治療前の試験に使える。可動鏡と弱い支えは封印箱の中だ。節付き測り針は、四日前から私の腰に残っている。
私は箱の前へ座った。
赤い封蝋には、竜王家の印が二つ押されている。紐は交差し、どちらか一方を切っても蓋は開かない。
「開けます」
ヴァルドが腰の短剣へ手をかけた。
「余が切ろう」
「私が開けます」
「封じたのは余だ。責任も」
「中身を使うのは私です」
言葉がぶつかり、二人とも止まった。四日前なら、ここからどちらが決めるかの争いになった。箱の中身が必要な患者は、すぐ横にいるのに。
私は一覧表を箱の上へ置いた。紙の端が封蝋に触れないよう、指で押さえる。
「封印を切る人と、中身を確認する人を分けます」
ヴァルドの手が、まだ柄の上にあった。
「あなたが切る。私とネッサが一覧を読む。ヴェラは、使っていい物を決める」
「余が開封を止めた場合は」
「理由を記録する。私が同意しなければ開けない」
「そなたが危険な物まで出そうとした場合は」
「ネッサが止める」
ネッサは壁から一枚の木札を外した。札の文字を、箱へ向ける。
「封印箱。開封二人、確認二人、使用は患者」
「四人ではないか」
「役割は三つ」
ヴァルドの眉間に溝ができた。短剣を抜く音は短かった。刃ではなく、柄を私へ向けた。
「切る場所を選べ」
命令ではなかった。
私が紐の交点を指す。彼は一つ目の封蝋へ刃を入れた。
赤い蝋が割れる。私の胸の奥でも、三日間固まっていた何かが少しだけ割れた。
二つ目。蓋が浮く。中には、一覧通りの道具が並んでいた。可動鏡一。替え刃六。接合材二。弱い支え一。命綱三。記録紙十二。
私は一本ずつ取り出し、ネッサが読み、ヴァルドが封じたときの傷を答える。傷の位置は、一覧の欄外に落ちていった。
最後に空の溝が一つあった。
「ここには?」
指でなぞる。溝の縁は、ほかより少しだけ摩耗している。
「初めから空だ」
ヴァルドの答えは短かった。小金具の形とは違う。私が持つ欠けた証拠受けが入っていた場所だ。嘘ではない。全部を話したわけでもない。
私は空欄へ書いた。証拠受け――リタ携行。
「危険な証拠も、次から一覧へ入れます」
「……よかろう」
「今、決めるのは次からです。過去を許したとは言ってません」
「知っておる」
同じ答えだった。今度は少し、苦かった。
ヴェラの許可を取り、箱から可動鏡だけを出した。節付き測り針は腰から抜く。刃と接合材は箱へ残す。長柄鏡で見つけたひびへ、可動鏡の角度を合わせる。測り針は歯へ触れず、鏡面に映る影の幅だけを測った。
「ひびは表面だけではありません。根元へ向かって斜めに入っています」
「削る?」
「削りません。まず外から支え、飛行でひびが動くか見る。動くなら治療が必要です」
「試す」
「危険があります」
「聞く」
以前のヴェラなら、時間だけを聞いた。今は危険を聞くと言った。
私は弱い支えを手に取る。精霊王の葉を芯へ使った、力がかかればたわむ輪だ。箱の外へ出しても、まだ使わない。見せるだけにする。
「これは歯を治しません。ひびの動きを外へ伝えるだけです。大きく開けば輪が外れ、顎帯の赤札が落ちる」
「落ちたら着地」
「私の合図でも」
「ネッサの合図でも」
ヴァルドが言った。
私は彼を見る。短剣はすでに腰へ戻っていた。手が空いているのに、まだ責任の置き場を探している目だった。
「あなたの合図は?」
「余にも要るのか」
「一番要ります」
ネッサが木札を一枚動かした。
「停止綱を三本。患者、治療者、外部役」
「竜王は?」
「外部役の指示に従う」
ヴァルドはしばらく黙った。箱の蓋へ視線を落とし、それからネッサの札へ移す。
「余へ飛び方を命令するな」
「路線規則です」
「その言葉を気に入ったのか」
「便利」
私は笑いそうになった。まだ、笑う場面ではない気もした。けれど口元は少し動いた。ヴァルドがそれを見たかは分からない。
彼は三本目の停止綱を取り、ネッサへ渡した。綱の端が掌に残るあいだだけ、指が一度止まった。
「明朝、試す。余も飛ぶ」
「命令ですか」
「申請だ」
ネッサが即座に答えた。
「速度上限を守るなら、許可」
竜王の眉間に、今日いちばん深い溝ができた。




