第35話 竜王陛下、臨時便です
六度鐘が輸送所の梁を一度叩いたあとだった。ヴェラの口を開ける手前で、北の空が先に暗くなった。
大型便は、屋根より大きかった。
黒鉄色の翼が広場の日を消し、鱗の隙間を赤い光が走る。小型竜たちは一斉に首を伏せた。私は伏せなかった。逃げもしなかった。手の中の手鏡を、まだ持っていた。
着地の熱が砂を跳ね上げ、赤い煙が巨体を包む。煙が薄れたとき、荷の下に白髪の大男が立っていた。背には薬箱が三つ、包帯の樽が二つ、封書袋が四つ。その下に、二本の太い帯で固定された長箱。王家の赤い封蝋。見慣れた留め金。
私の工具箱だった。
指が先に開いた。革の三点留めが床へ当たり、鏡は割れずに一度跳ねて止まった。
「成功です」
「何が」
トルカが後ろから聞いた。
「落下試験」
「今やるな」
ヴァルドが広場へ降りた、では足りない。第六便として、予定より早く、因果ごと降りていた。四日前に言えなかった言葉は、今度も出なかった。私は落ちた鏡の縁を見ていた。彼は荷の位置を見ていた。視線は一度重なって、すぐに外れた。
「臨時第六便、北峠経由。薬箱三、包帯二、王都書状四」
ネッサが帳面を読み上げた。
「運び手、ヴァルド」
「陛下をつけよ」
「運行札には入りません」
「ならばせめて竜王と書け」
「札が長くなる」
ネッサは本当に木札へ、ヴァルドとだけ書いた。相手が誰でも、場所と時刻と重量以外へ関心が薄い目だった。ヴァルドの眉間に、浅い溝ができた。
「余を荷運びへ登録したのは、そなたか」
「中立運び手会です。あなたが王都側で山岳便の強制停止を退け、路線ごとの停止権限を会へ移した。再編で空いた第六便へ、あなたが署名した」
ネッサが一枚の書状を差し出す。赤い印の下に、太い字でヴァルドとあった。私の知らない文書だった。
「強制停止命令?」
尋ねると、ヴェラが先に答えた。
「王都は、歯の診察歴がある輸送竜を全路線から外すと通告した」
「今朝届いた」
ネッサが続ける。
「その一刻後に撤回。路線単位の停止、代替便優先。診察記録は本人と治療者の同意なしに、運行判断へ使わない」
ヴァルドは私を見なかった。
「王が飛行を許すか禁ずるかの二択では、患者は口を開かぬ」
誰から聞いたのかは、聞かなかった。今聞けば、何かを許した形になる気がした。
「それで、ご自分を代替便に?」
「余が署名できる空きがそこにあった」
「竜王の仕事は」
「王都からここまで、飛びながら済ませた」
できるのだろう。腹の奥が熱い。言葉にはしなかった。
「到着、予定より一刻十三分早い」
ネッサが木札を一段下げた。
「速すぎる。次回から速度上限を守って」
「余へ飛び方を命令するな」
「路線規則です」
「規則を作ったのは誰だ」
「今、私」
トルカが顔を背けた。笑ったのだと思う。
私は床の鏡を拾った。三点留めは歪んでいなかった。鏡面も、欠けていなかった。
「工具箱まで運んだ理由は」
「運び手会の荷札にあった」
「誰が載せたんですか」
「余だ」
「それは命令と何が違うんです」
空気が止まった。ヴァルドは箱の帯へ手をかけたが、下ろさなかった。以前なら、作業台へ置いていた。必要だ、開けろ、治せ、と。今は箱を背負ったまま、黄色い線の内側で待っていた。
「違わぬと思うなら、受け取らずともよい」
「中身の一覧を見せてください」
ヴァルドが上着から折った紙を出した。可動鏡一、替え刃六、接合材二、精霊王の葉を使った支え一、命綱三、記録紙十二。封じたときの状態と、運んだ経路。開封者の欄だけが空いている。小金具は書かれていなかった。私が持つ炭写しも、書かれていない。まだ同じ箱には入っていない。
紙の端を指で押さえた。許可の範囲は、そこまでだった。
「受け取ります。開けるかは、診察の後で決めます」
「よかろう」
「あなたの許可を求めたんじゃありません」
「知っておる」
ヴァルドは箱を下ろした。ネッサがすぐに重さを量り、床の黄色い枠へ置く。
「封印工具。使用未定。運行外」
次に、ヴェラの木札へ手を伸ばした。
「患者。鏡まで同意。記録は輸送所止まり」
ヴェラが顎を下げる。
「右奥一本」
私は自作の長柄鏡を持った。ヴァルドは動かなかった。口も手も出さず、黄色い線の外に立っている。
「始めます」
ヴェラが、ゆっくり口を開いた。鏡を右奥へ入れる。歯の根元に、髪の毛ほど細いひびがあった。飛ぶたびに噛みしめた方向と、ぴたりと重なる斜めのひびだった。
私は鏡を抜く。
「見えたことを、先にあなたへ話します」
ヴェラの金色ではない茶の目が、私だけを見た。その向こうで、ヴァルドも待っていた。今度は誰も、答えを命令しなかった。




