第34話 一頭分の仕事を、五つに分ける
一頭の竜にしかできない仕事を、五つに分ける。
口に出せば短い。壁へ移すと、釘が足りなくなった。
「北峠は小型竜で越えられる。ただし薬箱は一つ」
ネッサは青い木札を、東の釘へ打ち直した。乾いた音だけが残る。
「残る一箱は?」
「山羊車で麓まで。峠番が背負う」
「峠番は午後まで雪柵の修理です」
「では雪柵が遅れる」
「遅らせていいんですか」
「薬よりは」
即答だった。ネッサは雪柵の札を裏返すと、それ以上は動かさない。
仕事を分けても、遅れは消えない。誰が、どの遅れを引き受けるかが見えるだけだ。昨日まで、その全部がヴェラの翼の裏に畳まれていた。
「西尾根の種は、今日でなくていい」
ヴェラは壁の時計を見たまま言った。針の位置だけを確認して、目を戻す。
「明朝でも発芽率は変わらない。石段村の塩は三袋減らせる。残りは来週」
「受取人は?」
「ハンナ。倉に二袋残っている」
ネッサの手が、帳面の上で止まった。開かない。初めて、数字より先に名前が出た。
「なぜ先に言わなかった」
ヴェラは釘の列を一度だけ見た。
「聞かれなかった」
「五本とも必要だと言った」
「必要ではある。今日、全部を私が運ぶ必要はない」
昨日までのヴェラは、その二つを同じ言葉でまとめていた。ネッサも、分けて聞かなかった。
壁の空いた板へ、私は紙を貼った。墨は薄い。患者、とだけ書いた。
「これはどの便です」
「便ではない」
「だから、どこにも入れないでください」
ネッサが眉を寄せる。札を持つ指は、まだ運行の間隔のまま開いている。
「入れなければ時間を割り振れない」
「診察の時間として割り振る。運べる重量には入れない」
四日前の私は、記録板へ自分の名を書けば数に入ると思っていた。数に入れることと、荷に入れることは違う。
店の裏口で、荷車の輪が石を噛んだ。
現れた男は、挨拶より先にヴェラの顎帯を見た。獣王領のときと同じ順だった。
「右だけ詰めたな」
装具師トルカは返事を待たず、革の端へ指を差し入れた。
「呼吸の逃げがない。首を固めたぶん、噛んで支えてる」
「昨日、手紙を出したばかりですよ」
「山便が速かった」
後ろで、小型竜の配達人が胸を張った。谷で使った革の残りを町へ売りに来る途中でもあった、とだけ付け足す。完全な偶然ではない。半分は、既定の道の上だった。
トルカは顎帯を外さない。指二本ぶん、浮かせるだけだ。
「これを直すなら、右を伸ばすだけじゃ駄目だ。翼を打ったとき、首が逃げる場所を作る」
「口を開けずにできますか」
「帯ならな。歯はお前の仕事だ」
「まだ鏡だけです」
「患者が決めた?」
「はい」
「なら鏡までだ」
職人にとって、許可された範囲は材料の寸法と同じらしい。勝手に一指ぶん足せば、それは完成品ではない。
店主から借りた人間用の手鏡を、作業台へ置いた。柄が短い。竜の右奥まで届かない。
封印箱の中には可動鏡がある。開けない。
壊れた顎帯から抜いた古い留め芯を、膝の上でまっすぐ伸ばした。手鏡の柄へ添え、細い革で二か所を留める。一度、持ち上げる。
鏡が回った。
「失敗一つ」
トルカが、余った革をよこした。投げ方は雑で、狙いだけは正確だった。
「二点で止めるから回る。三角にしろ」
「知ってます」
「今、回ったぞ」
「知っていることと、できることは別です」
三点目を斜めへ渡す。トルカは端を押さえ、私は結びを一度やり直した。今度は止まっている。
竜王の鱗も、精霊王の葉も、母の道具も使っていない。ただの鏡と、古い留め芯と、装具師の革だ。見栄えは悪い。今の私一人で仕上げた物でもない。だから、前より少し信用できた。
昼までに、壁には五本の新しい線があった。
北峠は小型竜と峠番。東谷は荷車と滑車便。西尾根は翌朝。南棚はヴェラの空荷便――ただし診察後、痛みが増えない場合だけ。石段村は塩を三袋に減らし、山羊車へ移す。
ネッサは最後に、ヴェラの札を五本の釘から外した。空いた釘へは掛けない。壁の中央、患者と書いた紙の横へ置く。木目の上で、札だけが一つ余った。
「正午から二刻。運行外」
ヴェラが時計を見た。
「長い」
「鏡で見る。結果を聞く。飛ぶか決める。全部で二刻」
「南棚は」
「空けてある。飛ばないなら小型竜が引き返して持つ」
ネッサの言葉の順は、場所、時刻、重量のままだった。けれど木札の外に、患者の時間が初めて置かれた。
「では、右奥一本を見ます」
私が鏡を持つと、ヴェラはゆっくり顎を下げた。
口を開ける直前、輸送所の鐘が六度鳴った。予定にない大型便が、北の空から来る合図だった。




