第33話 口を開けない患者を、外から測る
空を飛ぶ患者を測るには、三つ要る。
長い綱。
落ちない足場。
それから、自分は空へ落ちたことがあるという事実を忘れる能力だ。
三つ目だけ、用意できなかった。
「顔色が悪い」
試験塔の縁で、ネッサが言った。
「高いところは平気です」
「手すりを両手で握っている」
「逃げないようにしてるだけです」
「何から」
「主に地面から」
塔の外では、ヴェラが荷台を空にして待っていた。右の顎帯には紙の目盛りを貼ってある。前脚の付け根、翼の骨、顎帯。その三か所から細い糸を塔へ引き、動けば縁の木針が振れるようにした。
歯へは触れない。
口も開けない。
記録は輸送所に置き、共有先は後で決める。
始める前に、三つともヴェラへ読み上げた。
「違ったら、今止めてください」
「合っている。北へ二周、空荷、六分」
「痛んだら?」
「戻る」
「すぐに?」
「遅れが七分になる前に」
「それはすぐですか」
ヴェラは答えず、翼を開いた。ネッサが壁の木札を一枚、裏返す。試験中。発着停止。
「飛べ」
赤褐色の身体が塔を離れた。
私は縁から手を離さなかった。眼下に空荷のヴェラ。頭上ではない。横へ広がる空だ。三本の糸は、彼女の前脚、翼、右顎から、私の足元の木針まで一直線に伸びている。糸が緩む位置、張る位置、針が傾く向き。測るものはそれだけにした。
一周目。
前脚の針と翼の針は、同じ幅で往復した。顎の針だけが、右へ曲がる瞬間に遅れた。紙目盛りはまだ読めない。読めるのは針の遅れだけだった。
二周目。
向かい風へ入る。ヴェラが右の翼を強く打った。
三本の糸がいっせいに張り、顎の針が二節ぶん跳ねる。右帯が顎を上へ引く。その反動で、ヴェラは口を閉じたまま強く噛んでいた。翼拍のたびに、右奥へ偏った荷重が乗っている。外から見える連鎖は、そこまでだった。
「ヴェラ、戻って!」
翼がもう一度動く。
「戻ってください!」
彼女は塔を半周し、着地した。六分の予定に対して、三分十二息。止まるには十分早い。
私がそう数えていること自体、少し嫌だった。
「右へ曲がるたび、噛みしめています」
「そうしないと翼が下がる」
「歯で飛んでるんですか」
「顎を固めれば首がぶれない」
ヴェラにとっては、運行の一部らしい。
私は木針の記録を並べた。右前脚が出る。翼が打つ。顎帯が上がる。口を強く閉じる。順番は一つにつながっている。
「帯を短くしたのは、首のぶれを止めるためですね」
「北峠の七分が三分になった」
「その代わり、歯へ毎回力を入れた」
「荷は届いた」
「歯が壊れたら、次は届きません」
ヴェラの舌が、内側から金具へ触れた。音はしなかった。
「最初に右奥が痛んだのは、いつですか」
「北峠で七分遅れた日」
「その日の、飛ぶ前ですか。途中ですか。着いた後ですか」
「……覚えていない」
五村の受取人も、風の変わる場所も、荷の重さも覚えている竜が、自分の痛みの始まりだけを覚えていなかった。違う。忘れたのではない。運行単位に、入れていなかった。
「口を見せてください」と言いかけ、止めた。
同じ言葉でも、今は理由が違う。だから、頼み方も変えなければいけない。
「私が確認したいのは右奥歯一本です。鏡だけ。削りません。触りません。見えた内容は、まずあなたに話します」
「記録は」
「作ります。でも輸送所から出すかは、別に決める」
「飛行停止は」
「私は決めない。あなたとネッサが、代わりの便を作れるか先に確かめる」
ネッサが口を挟んだ。
「代わりはない」
「今は、でしょう」
「一頭で五路線。空きはない」
「一頭の代わりを、一頭で探すからです」
壁には、荷運び人、山羊車、小型竜、滑車便の木札が並んでいる。どれもヴェラと同じ仕事はできない。同じ仕事を、全部させようとすれば、空きは出ない。
「五本を分けます。崖を越える区間と、村まで運ぶ区間。薬と塩も同じ速さでなくていい」
ネッサの指が木札の上で止まった。
ヴェラは時計を見た。
「あと十一分」
「何がです」
「南棚便。遅らせれば包帯が午後になる」
私は道具鞄を見た。可動鏡は封印された箱の中だ。普通の手鏡なら店にある。竜の奥歯を見るには短すぎる。私一人では、十一分で鏡も代替便も作れない。以前なら、作れると言ったかもしれない。
「ネッサ。運行を分けてください」
「あなたは?」
「鏡を作る。工具店へ助けを頼みます」
「誰に」
店主の顔が浮かんだ。次に、獣王領で革を生き物の呼吸へ合わせた装具師の手が浮かぶ。
「二人です」
自分の口から出た数に、少し驚いた。
ヴェラが顎を下げる。
「代わりができたら、右奥一本。鏡だけ」
「はい」
「削らない」
「はい」
「先に私へ話す」
「約束します」
診察の許可は、口を開けることではなかった。どこまで開けるかを、患者自身が決めることだった。
残り十一分。
私は初めて、自分の工具を作る前に、他人へ助けを求めに走った。




