第3話 歯の中で工具が溶けた
竜王の歯の中には、足場という概念が足りなかった。
「聞いてません!」
『何をだ』
ヴァルドの声が、火山洞窟の空から雷のように降ってくる。
「入口の先が崖だってことです!」
『見ればわかる』
「入る前に知りたかったんです!」
私は片手で岩壁の出っ張りをつかみ、もう片方で命綱を握っていた。背中の三脚器具が重い。足の下には、底の見えない赤い谷がある。
入口の輪は、頭上の崖に小さな光として開いていた。外では私の腰ほどの高さだったはずなのに、こちら側では遠い。
帰り道がいきなり不安である。
『右へ三歩進めば、平地がある』
「あなたから見て右ですか、私から見て右ですか」
『右は右だ』
王様との共同作業には、方角の定義から必要らしい。
私は腰の輪から短い鉤綱を抜き、岩へ投げた。床の鉄輪へ続く命綱は背後へ張ったまま、右足を壁の割れ目へ置き、身体を横へ振る。
一歩。二歩。
三歩目で、靴底が黒い岩棚を捉えた。
「ありました」
『当然だ。余の歯だぞ』
「歯の中を自慢する人、初めて見ました」
岩棚へ上がり、可動鏡を伸ばす。
目指す場所は、溶岩の川を挟んだ向こう側にあった。白い岩壁の一部が黒く崩れ、中心へ細い亀裂が走っている。亀裂から噴く炎が、一定の間隔で強くなっていた。
虫歯の侵食部。
外で測った穴の奥にあった、削るべき場所だ。
白い岩壁は、四つ数えるたびに淡く明滅していた。
光が強くなると炎が膨らみ、弱くなると引いていく。店でヴァルドが息を吐いた間隔と、よく似ていた。
私は記録板へ「熱流・四拍」と書いた。
炎が引く瞬間に刃を当てればいい。そう判断しただけで、外にいるヴァルドへ確かめようとはしなかった。
患者へ聞くより、自分で測った数字のほうが信用できる。
その考えを疑う理由は、まだなかった。
「橋を掛けます」
『急げ』
「急かすと料金が上がります」
『国ごと買える額を払ってやる』
「では、先払いで」
返事の代わりに、洞窟全体が低く唸った。
私は折り畳んだ鎖を岩棚へ固定し、鉤を対岸へ飛ばした。二投目で、黒い亀裂の脇へ食い込む。
鎖に腹ばいになり、工具を引きずって渡った。
熱は予想どおりだった。
取っ手は握れる。三本の脚も曲がっていない。
測定は正しい。
なら、治療も正しい。
黒い岩壁の前へ三脚器具を立てた。外周の脚を白い部分へ広く当て、中心の刃だけを侵食部へ向ける。
四つ数え、炎が細くなったところで脚を締める。
もう四つ数え、刃先を半目盛り進める。
器具は安定していた。
ヴァルドの呼吸が、私の数えた周期から外れるまでは。
「固定しました。少し削ります」
『やれ』
手回し輪を一度回す。
刃先が黒い岩へ触れた。
洞窟が跳ねた。
そう感じるほど、足元が激しく突き上がった。
ヴァルドが吠える。
器具へ、横から衝撃が走った。
三脚の右脚が根元で乾いた音を立て、まっすぐだった脚が真横へ折れ曲がる。
同時に、亀裂から炎が噴き出した。
「うわっ!」
火柱が三脚器具を包む。
残る二本の脚は耐えた。十を数えても曲がらない。炉で試したとおりだ。
しかし炎は十で止まらなかった。
二十。
三十。
「動かないで!」
『余へ命令するな!』
「今それを言いますか!」
私は取っ手へ体重を掛け、刃先を中心へ戻した。
もう少し削れば、炎の通り道が開く。圧が逃げれば、山も鎮まる。
そう計算していた。
黒い岩が割れる。
奥から現れたのは空洞ではなかった。
墨より黒い何かが、白い壁へ根を張るように食い込んでいる。
「何、これ」
石でも骨でもない。
見たことのない表面だった。
鏡を近づけた瞬間、黒いものが脈打った。
周囲の炎が黒いものへ吸い寄せられ、そこからさらに大きく膨れ上がる。
残っていた左脚が、根元から溶け落ちた。
器具が傾き、刃先が白い岩壁をえぐる。
『離れろ!』
「まだ取れます!」
私は黒いものへ鉤を伸ばした。
届く。
あと少し。
足元の岩棚が崩れた。
器具も、鎖も、私もまとめて溶岩の谷へ落ちる。
命綱が腰へ食い込んだ。
床の鉄輪へ二重に結んだ綱が、一度、身体を止める。
次の瞬間、頭上で硬い音がした。
母の道具箱から持ち出した輪が、熱で赤く歪んでいる。
入口までの道が閉じかけていた。
「ヴァルド!」
『綱を離すな!』
「離したら落ちます!」
『ならば黙ってつかまれ!』
洞窟の天井が割れた。
黒鉄色の巨大な爪が、白い岩壁を突き破って入ってくる。
ヴァルドが外から、自分の犬歯へ爪を押し込んだのだ。
崩れた岩が、雨のように落ちる。
爪は命綱ごと私をすくい上げた。
そのたびに、洞窟のどこかで何かが裂ける。
火山の轟音へ、ヴァルドの低い呻きが重なった。
初めて聞いた声だった。
「止めて、歯が!」
『貴様が先だ!』
爪が入口の輪を押し広げる。
視界が白く反転した。
気づくと、私は工具店の床へ転がっていた。
焦げた前掛けから煙が上がっている。両手は赤いが、指は動く。肩を打ったらしく、腕を上げると痛んだ。
生きている。
背後で、鎧戸が吹き飛んだ。
朝の空が真っ赤だった。
町の鐘が鳴る。
一つ、二つ、三つ。
火事ではなく、山から離れろという合図だ。
ヴァルドは人の姿のままだった。右腕だけが黒鉄色の鱗に覆われ、爪の先からゆっくり人の形へ戻っていく。
左手は右頬を押さえ、指の間から赤い光を漏らしていた。
「もう一度、入ります」
「ならぬ」
「原因が見えました。黒いものが」
「ならぬと言った」
「次は器具を」
「次はない」
ヴァルドの声に、店の壁が震えた。
「余は二度と口を開けぬ。貴様も二度と、この歯へ触れるな」
「失敗したまま終われと?」
「死ぬよりましだ」
彼はそう言い捨て、壊れた扉から出ていった。
外では避難する人々が荷車を押し、山の灰が朝日を隠し始めている。
私は追わなかった。
床に散った器具を拾う。
左脚は、根元から溶けていた。
想定した熱を超えていた。それは見ればわかる。
けれど、右脚は溶けていない。
熱を受ける前に、真横へ折れ曲がっていた。
測定した顎のずれより、ずっと大きい。
道具は嘘をつかない。
なら、私が測らなかった何かがある。




