第2話 竜王の虫歯は、山より広い
竜王の虫歯を測るのに、店で一番長い物差しでは足りなかった。
正確に言うと、長さの問題ではない。
「口を閉じないでください」
「いつまで余へこの姿勢を取らせる」
「三十数える間です」
「先ほどもそう言った」
「あれは測る場所が違いました」
人の姿をしたヴァルドは、工具店の椅子へ座り、ひどく不機嫌そうに口を開けていた。
不機嫌そう、というより不機嫌そのものだろう。ただし、顎を動かすたび、右目の下だけが固くなる。
私はその動きを記録板へ線で写した。
「何を書いている」
「顎が横へ、目盛り二つ分ずれる」
「余の顎はずれておらぬ」
「痛い側を避けて噛むからです」
「痛いとは言っておらぬ」
「では、趣味で曲げているんですね」
ヴァルドが口を閉じた。
「閉じないでください」
「貴様の言葉遣いに問題がある」
「患者さんの協力姿勢にも問題があります」
「余は患者ではない」
では何を治しに来たのだろう。
聞いても面倒が増えるだけなので、私は可動鏡を手に取った。
第七試作品の外れやすかった継ぎ手には、母の道具箱から見つけた金具を足してある。父と同じ二本刻みが入った金具だ。
腹は立つが、鏡はもう落ちない。
「もう一度、開けて」
ヴァルドは私をにらんだあと、渋々口を開いた。
赤く光る犬歯の穴へ鏡を近づける。
表面の穴は、私の小指が入る程度だった。縁は黒ずみ、中心から熱い風が吹いている。
鏡の先端を穴へ差し込んだ。
手応えが消えた。
「……ん?」
持ち手は私の手にある。軸も穴へ続いている。
それなのに、鏡の重みだけがなくなった。
角度を変える。
鏡面いっぱいに、赤い山が映った。
尖った岩壁。泡立つ溶岩の川。天井のない暗い空を、火の粉が星のように流れている。
鏡は崖の上から、山ひとつ分の空間を見下ろしていた。
小指ほどの虫歯の中に、である。
「物差しが足りないわけだ」
「何が見える」
「山です」
「歯を見ろ」
「歯の中に山があるんです!」
思わず鏡を引いた。
先端が穴から出た瞬間、鏡はいつもの小ささへ戻り、ずしりと重みが返ってくる。
もう一度入れる。重みが消え、火山が映る。
母の金具を足した継ぎ手だけが、穴の向こうから熱を受けていた。手元の軸は冷たいままなのに、古い金具には指を離したくなるほどの熱が残っている。
境目を越えた部分だけが、向こう側の大きさに合わされているらしい。
「王の歯は国土へつながる」
ヴァルドが、ようやく説明らしい説明をした。
「余の炎と山々の熱は、この牙を要として巡る。中へ入れば、竜の国を形作る火の流れが見えよう」
「先に言ってください」
「伝説の歯医者の末裔なら知っていると思った」
「伝説は閉店しました」
私は鏡を戻した。
知らなかったことを悔しがる時間は、器具が完成してからでいい。
穴の縁へ細い測り針を当てる。
縦、横、奥行き。
熱は炉の中心より高い。金属を替える必要がある。
針を少し奥へ押したとき、床が揺れた。
棚の金槌が一本落ちる。
ヴァルドの手が、椅子の肘掛けをつかんだ。
「今のは?」
「北の山で岩盤が割れた」
「わかるんですか」
「余の国だ」
短い返事だった。
私は針を止め、記録板へ印をつける。押す力を半分にする。
反応が国土へ伝わるなら、削る器具は細く、固定は広くしなければならない。
「もう一度、同じ場所へ触れます」
「好きにせよ」
「山が割れても?」
「治療をせねば、いずれ全て噴く」
ヴァルドの声は変わらなかった。
私は彼の顎ではなく、測り針を見た。
押す。止める。熱を測る。針先が赤くなるまでの時間を数える。
顎が一度、大きく動いた。
記録板へ「横ずれ」と書き足す。
「今、何が起きました」
「何も」
「では、このずれは器具側で吸収します」
どう痛んだのかとは、聞かなかった。
聞く必要があるとも思わなかった。動いた幅がわかれば、器具は作れる。
測定を終えたころには、窓の外が白み始めていた。
私は炭炉へ新しい火を入れた。
耐熱に優れた炉口用の鉄を薄く延ばし、三本の脚へ分ける。中心へ削り刃を置き、外周の脚で穴の縁を押さえる。
顎がずれても、刃先だけは動かない構造だ。
ヴァルドは椅子から動かなかった。
「寝ていてもいいですよ」
「余へ無防備に眠れと言うか」
「一晩中、口を開けた相手に今さら何を守るんです」
返事がない。
金槌を打つ音だけが、店に響く。
夜が明けるにつれ、鎧戸の隙間の赤さが薄れた。
山が鎮まったのではない。朝日が火山の色を隠しているだけだ。
最後の留め具を締める。
三脚の器具は、作業台の上でまっすぐ立った。
穴の寸法。顎の横ずれ。内部の熱。
測った値は、全て反映した。
試しに木の顎へ固定する。揺らしても、刃先は中心から動かない。
炉から赤熱した鉄棒を抜き、器具の先へ押し当てた。
十を数える。
二十。
脚は赤くなったが、曲がらない。
熱を逃がす取っ手だけは、素手で握れる温度を保っている。
「火にも耐えます」
「余の炎を炉と同じにするな」
「温度が同じなら、道具には同じです」
ヴァルドは何か言いかけ、やめた。
私はその沈黙を、反論できない証拠だと受け取った。
なぜ黙ったのかまでは考えなかった。
「完成です」
ヴァルドが立ち上がった。
「治せるのだな」
私は器具を工具鞄へ収めた。
合わない理由は、もう残っていない。
「寸法は完璧です」
「答えになっておらぬ」
「工具屋は、道具で答えます」
母の道具箱に残っていた輪状の留め具を取り出す。
可動鏡の継ぎ手と同じ色をしていた。用途は知らない。けれど、犬歯の穴へ近づけると、鏡を通したときと同じ熱が輪の内側へ流れ込んでいく。
犬歯の穴へ合わせると、古い金具が赤く光り、穴の向こうから熱い風が店内へ吹き出した。
鏡の先だけをのみ込んでいた境目が、輪の内側いっぱいに押し広げられ、そのまま固定された。
私は命綱を腰へ結び、反対側を床へ打ち込まれた鉄輪へ二重に結んだ。それから、完成した器具を背負う。
「余の中へ入るつもりか」
「外から届かないなら、中へ行きます」
「死ぬぞ」
「治せと言ったのは、あなたでしょう」
一歩、輪の内側へ踏み込む。
身体が火の粉より小さくなったのか、虫歯が世界より大きくなったのかは、わからなかった。
ただ、目の前にあったのは歯ではない。
噴火寸前の山だった。
そして私は、その山を寸法どおりに削れば治ると、本気で信じていた。




