第31話 封蝋の箱は、工具店でも開かない
自分の店へ戻れば、箱くらい自分の手で開くと思っていた。
三日かけて南へ降ろした荷車の上で、その箱は一度もがたつかなかった。蓋は真っ直ぐで、角は欠けておらず、正面の封蝋だけが、店の埃より先に目へ入った。
店主は箱を一周した。指は封へ触れず、底、角、紐の当たりだけを確かめて、正面へ戻ってくる。
「赤竜の封蝋だな」
「赤いですね」
「見れば分かる。王家の封蝋だ」
「それも知っています」
「なら、なぜ鑿を持っている」
作業台の端で、細い鑿がすでに掌の向きを変えていた。封へ当てる前に、私はそれを台へ戻した。
「封蝋へ使うとは言ってません」
「目が言っている」
箱の中には、可動鏡、替え刃、接合材、弱まりつつある精霊王の若葉、細綱などがある。治療記録の一部もある。谷で増えた道具は、きれいに並んだまま、蓋を王家の印で閉じられていた。
封を壊せば箱は開く。同時に、ヴァルドが何を、誰に、どの状態で預けたかという跡も壊れる。腹立たしいほど正しい封印だった。
「開けずに置いておきます」
「三日目にして、ようやく賢くなったか」
「封蝋の型を写してからにします」
「まだ半分だな」
店主は箱を店の奥へ押した。封は破られていない。中の道具は、まだ中の道具のままである。
私は腰から入口の輪、節付き測り針、欠けた証拠受けを外し、作業台へ並べた。炭写しを二枚挟んだ記録板も、そこへ置いた。手元から離さなかった物だけだ。
虫歯を削る刃も、奥を見る鏡もない。歯医者としては、両手の指が半分なくなったようなものだった。工具店員としてなら、棚が一つ空いただけである。
「リタ。戻った初日に持ち込まれた鍋の取っ手がまだだ」
「直しました。帳場の下です」
「荷車の車軸」
「削り直して油を差しました」
「扉の蝶番」
「今朝」
店主は帳面を閉じた。
「旅で口だけは達者になったと思ったが、手も動いていたらしい」
「褒めるなら、もう少し分かりやすくしてください」
「給金で分かれ」
店の表で鐘が四度鳴った。火事は連打、盗難は二度。四度は、山岳輸送所が大型工具を求める合図だ。
店主が棚の上を見た。
「大きい患者用なら、箱の中だぞ」
「患者とは限りません」
「その顔で言うな」
私は普通の革鋏、留め金、手回し錐を鞄へ詰めた。歯の道具ではない。封を壊す理由にもならない。制限の中でも、工具店員の仕事は始められる。
輸送所は町の北門へ張りつくように建っていた。屋根が高く、人用の扉の横には、荷車が三台並んで通れる開口がある。
その中央を、一頭の赤褐色の竜が塞いでいた。ヴァルドよりずっと小さい。それでも頭だけで、私の背丈はある。長い翼は左右へ畳まれ、背の荷台には五色の札が下がっていた。
竜は私を見ず、壁の時計を見た。
「南棚、四分遅れ」
「挨拶より先に遅刻を申告する患者は初めてです」
「患者ではない。顎帯の修理客だ」
低い女の声だった。右の顎へ回した革帯は、左より指二本ほど短い。金具の穴は一つ飛ばしで広がり、端には新しい裂け目があった。
風は開口から真っ直ぐ入っていた。荷台の札が、五枚とも同じ向きに揺れる。
私は竜の正面へ回った。
「お名前は」
「ヴェラ。北峠へ薬、東谷へ書状、西尾根へ種、南棚へ包帯、石段村へ塩」
「聞いたのは名前だけです」
「五つとも、私の名前より先に着く必要がある」
壁際で木札が鳴った。濃い緑の上着の女が、五色の札を一本の釘へ集めている。髪には細い木屑がいくつも刺さり、抜く様子はなかった。
「ネッサ。ここの配車です。右顎帯、正午まで。次便は北門、十一刻、薬箱二つ」
「修理に必要な時間を、先に決めないでください」
「決めないと五村が待つ」
「短く決めたら、患者が壊れます」
ネッサは壁の木札を一枚だけ、隣の釘へ移した。
「では、何分」
「まず見ます」
私はヴェラの顎帯へ指をかけた。革の外側は冷たい。右奥、顎の付け根に近い部分だけ、触れる前から熱が見えた。正確には、皮膚の下で小さく脈打っていた。
「口を開けてください」
「断る」
返事は、時計の針より速かった。
「顎帯だけ直せ」
「歯が原因かもしれません」
「診察記録が出れば飛行停止になる」
「止まる必要がある状態なら」
ヴェラの舌が、顎帯の金具を内側から一度だけ叩いた。痛みの話は、そのあとに来るはずの位置で、来なかった。
「五村の代わりを用意してから言え」
私は口を閉じた。母は、患者の顔を見ろと言った。口を開けさせることと、患者を見ることは、同じではない。
厄介な修理客、では足りなかった。診察が仕事を止めると見ている相手だった。
「分かりました。今日は顎帯だけ見ます」
ネッサがこちらを向く。
「歯医者なのに?」
「拒否された診察は、診察じゃありません」
私は革鋏を出し、裂けた帯の端を指で持ち上げた。右だけ短い理由は、まだ聞いていない。歯も見ていない。
それでも、修理前に分かることはあった。裂け目は、一度に引きちぎられた形ではなかった。同じ方向へ、毎日少しずつ伸びていた。
ヴェラが痛みを隠し始めた日から、ずっと。




