第30話 帰り道を、二つに分ける
「その王命には、従いません」
言っても、封蝋は割れなかった。
荷車の屋根柱には赤い竜の印が残り、私の可動鏡も替え刃も、その向こうの箱の中で静かに荷物をしていた。
腰には入口の輪と節付き測り針があり、欠けた証拠受けと炭写しを挟んだ記録板は手元に残っていた。
ヴァルドは私を見ていた。
患者の顔を見るように、と母は言った。
だから私は、白髪の竜王から目をそらさなかった。
「理由を聞こう」
「理由を聞かずに命令した人が?」
「聞けば、そなたは行かぬと言う」
「今、初めて意見が合いましたね」
護送役の二人が、温めていた封蝋をそっと火から外した。
正しい。これは近くで聞く会話ではない。
けれど二人が離れようとすると、ヴァルドが片手を上げた。
「地図を置いてゆけ」
護送役が足を止め、荷台から二枚の旅程図を下ろした。
北東の王都へ向かう道と、南へ折れて工具店へ戻る道。
作業台の上へ並べられると、最初から一緒に旅をしていなかったように見えた。
「そなたは店へ戻る。余は王都でこれを調べる」
ヴァルドは胸元へ触れなかった。
触れなくても、隠した小金具がそこにあることは分かる。
「調べて、危険でなければ教える」
「そうだ」
「危険だったら?」
「なおさら知らせぬ」
答えが速すぎた。
私は手元の記録板を開き、保管者――ヴァルド、と書いた行を彼へ向けた。
「それでは、私は何を避ければいいんですか」
「何も追うな」
「似た物を患者の歯で見つけても?」
「触れるな」
「理由を聞かれても?」
「余の命令だと言え」
「歯医者の診断を、王様の名前で埋めるんですか」
ヴァルドの顎が固くなった。
怒るとき、彼は声を荒らげない。言葉から余分な部分が消える。
「そなたは歯医者である前に、一人の人間だ」
「だから私として返事をしています」
「ならば己の命を守れ」
「守るために情報が要ると言っているんです」
「そなたへ渡せば、守るためでなく近づくために使う」
否定の言葉が、一拍遅れた。
黒い異物の正体を知りたい。前に見つけた、父と同じ加工癖の出所も確かめたい。患者の中に異物が残っているなら、取り除きたい。
どれも本当だった。
けれど、だからといって私の手足まで彼の物にはならない。
「私が危険へ近づくから、あなたが代わりに全部決めるんですか」
「必要ならば」
「母にも、そうしたんですか」
谷の風が止まった。
実際には止まっていない。荷車の雨布は鳴っていたし、火皿の煙も流れている。
ヴァルドだけが、動かなかった。
「エルナは関係ない」
「あります」
「ない」
「あなたは私を見ていません」
記録板を持つ指が痛い。力を入れすぎていると分かっても、緩められなかった。
「歯の中で母を助けられなかったから、今度は私を先に遠ざける。私を守っているんじゃない。母への後悔を、私でやり直しているだけです」
言い切った瞬間、それが一番深く刺さる言葉だと分かった。
分かっていて、選んだ。
ヴァルドの金色の目から、王の静けさが消えた。
「では、そなたは何を見ておる」
低い声が、荷車の木枠を震わせた。
「患者か。道具か。死んだ後に残る成果か」
「私は死ぬつもりで治療していません」
「つもりの話をしておらぬ!」
火皿の炎が横へ伏せた。
護送役の一人が下がりかける。ヴァルドはそれを見て、握った手を開いた。炎は火皿の中へ戻った。
それでも、声は戻らなかった。
「空から落ちたとき、そなたは工具を先に拾った」
「精霊王の歯では、停止の綱が張りつめるまで手を離さなかった」
「あのときとは違います。今は患者に聞く。合図も決める。誰かに支えを頼む」
「違わぬ」
「違います!」
「手順は変わった。そなたの勘定は変わっておらぬ」
ヴァルドの指が、開いた記録板へ落ちた。
「道具が残る。患者が助かる。謎へ一歩近づく。そのためなら己を損耗欄へ書けると思っておる」
炭で並べた文字が、急に読めなくなった。
「そなたの記録には、いつも一つだけ欠けておる」
太い指が、何も書かれていない板の端を叩く。
「そなた自身だ」
言い返せなかった。
ヴァルドは間違っている。
同時に、間違っていない。
それが、いちばん腹立たしかった。
「だったら、書けばいい」
私は炭棒を取った。
記録板の空いた行へ、リタ・アルデン、と書く。状態――無傷。判断――調査を続ける。本人の同意――あり。
文字を足しただけだと、自分でも一瞬分かった。
命の重さは、この板では数えられない。
それでも記録板を胸元へ引き寄せたまま、視線を逸らさなかった。
「これで、私も数に入った」
「文字を足せば命が増えると思うな」
「王命を足せば、私の意思が消えると思うな」
ヴァルドの手が、記録板へ伸びた。
奪われると思い、さらに強く引く。
彼の手は途中で止まり、作業台の二枚の地図へ落ちた。
「余は、そなたを失う許可など出さぬ」
「私の命に、あなたの許可札をつけないで」
「失うな」
今度は炎ではなく、谷そのものが震えたように聞こえた。
私は唇を噛んだ。
ヴァルドも、次の言葉を言わなかった。
代わりに北東の旅程図を折り、上着へ入れる。
その動作だけは、いつもの王だった。
「余は王都へ戻る」
「私は工具店へ戻る」
「初めから、そう命じておる」
「違う」
私は南の旅程図を取った。
「あなたに帰されるんじゃない。私が戻って、自分の工具を開ける。それから、自分で次に行く場所を決める」
「……好きにせよ」
「そうする」
正午の鐘が、谷の向こうで鳴り始めた。
一つ目の音で、護送役が荷車の踏み台を出す。
二つ目の音で、ヴァルドが王都への道へ身体を向ける。
三つ目が鳴る前に、私は彼の背中へ何か言いかけた。
名前だったのか、謝罪だったのか、自分でも分からない。
結局、口からは何も出なかった。
工具は一つも壊れていない。
それでも私たちの帰り道は、きれいに二つへ分かれていた。




