第28話 帰り道に、私の名前があった
歯色の薄片は、朝になると爪を一本増やしていた。
「増えてはいません」
私は自分へ言い直した。
昨日、王牙の中で倒した爪は三つ。布の上に見えている出っ張りも三つ。四本目に見えたのは、白い罫書き粉が残した細い空白だった。
空白には、何かがはまっていた形がある。
薄片を裏返す。根元側の爪、中央の爪、先寄りの爪。それぞれに細糸を掛け、節付き測り針の目盛りへ合わせた。三つの荷重順は、昨日デルクが言った通り残っている。
その横だけ、粉が爪ほどの四角形に途切れていた。
「ヴァルド。ここに付いていた物、見ましたか」
休み囲いの入口で、彼は二枚の旅程図を重ねていた。心配しているときほど背筋が伸び、紙の角まできっちりそろう。
「昨夜も答えた。罫書きの跡だ」
「跡には厚みがありません」
「粉が布へ移ったのであろう」
答えは速かった。
速すぎる答えは、測り直す。工具ならそうする。相手が竜王でも、たぶん同じでいい。
私は証拠袋の口を開き、内側の布を日へ透かした。白い粉は付いている。けれど四角い物が転がったなら残るはずの角の跡はなかった。
「袋に入る前に外れたんですね」
ヴァルドの指が、旅程図の同じ道を二度なぞった。
「治療へ関わる物なら、余が見落とさぬ」
「見落としたかを確かめたいんです」
「そなたは薄片を記録せよ。残りは余が調べる」
残りがある、と言ったように聞こえた。
けれど彼はもう地図へ視線を戻していた。
薄片は治療を終えた物証で、患者の一部ではない。それでも、どこに何が付いていたかを崩せば、次の異物と比べられなくなる。私は三本の爪へ赤い糸を結び、四角い空白には糸を通さず、輪だけ作った。
無い物を、無かったことにしないための輪だった。
袋へ戻すと、箱の底で薄片が滑った。
一度。二度。角へ当たる。
私は工具鞄から、昨夜使い切らなかった前腕毛の端と薄い革を出した。革を四枚、薄片の形より指一本広く切る。二枚には三本の爪が沈む溝を開け、残る二枚は外側の枠にした。
重ねて、逆さにする。
薄片が落ちた。
「失敗一つ」
溝が深すぎて、爪を支えず通してしまった。切った革は捨てず、外枠の逃げに回す。今度は溝を爪の半分で止め、前腕毛を細く撚って底へ渡した。
もう一度、逆さにする。
薄片は動かない。糸だけが揺れ、三本の爪と四角い空白を別々に示した。
「これなら運べます」
「運ぶ必要はない」
顔を上げると、ヴァルドは証拠箱ではなく、私の工具鞄を見ていた。
休み囲いの外では、荷車が三台並んでいた。一台は谷道の保守材、もう一台はラシャの王宮へ戻す記録、最後の一台には乾いた布と細い縄が積まれている。
私の可動鏡が、その乾いた布の上にあった。
「どうして出したんですか」
「鏡の継ぎ手に粉が入っている。飛行中に開けば、また落とす」
その診断は正しかった。継ぎ手を動かすと、獣王領の白い粉が細くこぼれた。
ヴァルドは荷車の横木へ指を当てた。昨夜の雨で膨らんだ木は、車輪の軸を片側だけ締めている。彼は車体を持ち上げず、荷を三つに分けた。重い金具を左右の箱へ移し、中央には布と工具だけを置く。
次に、人の爪ほどへ竜化させた右の指先で、横木の留めを半目盛り戻した。
車輪がまっすぐ回った。
正しく回ることと、中の工具が無事なことは別だ。
「一度、石を越えてください」
私は可動鏡の箱へ炭の細棒を三本立てた。揺れれば、倒れた向きで衝撃が分かる。ヴァルドが荷車を押し、囲いの入口に埋まった拳大の石へ左の車輪だけを乗せた。
箱の中で、三本とも同じ方向へ倒れた。
「中央へ置けば安全なのではなかったのですか」
「左右の荷を分けても、屋根の柱が同じ側へ寄っておる」
彼は言い訳せず、屋根の縄を外した。柱を切る代わりに、片側だけ二重になっていた雨布を畳み直す。私は中央の箱の下へ薄革を斜めに二本渡し、荷台からわずかに浮かせた。
二度目。
炭は一本だけ倒れた。
「まだ右からです」
「ならば、右の金具箱を半分後ろへ」
「後ろへ寄せると坂で戻ります。留めを一つ増やして、切れたら箱ごと下へ逃がします」
私はさっき深く切りすぎた革を取り出した。失敗した溝へ縄を通すと、荷台へ強く縛らなくても、横へずれたときだけ革が裂けて箱を下へ落とせる。
三度目。
炭は倒れなかった。
ヴァルドは石をもう一度、今度は少し速く越えた。私は箱の縁へ指を当てたまま、揺れを数える。
一つ。二つ。三つ。
三つ目だけが小さい。薄片を運ぶなら十分だった。
「合格です」
「当然である。誰が道を選んだと思っておる」
道具を落とさないためなら、私たちはまだ同じ失敗を見て、同じところで止まれた。
それが少しだけ、嫌だった。
「悪路でも、中央の箱へ衝撃は来ぬ。雨を避ける屋根も付けさせた」
「工具を運ぶために、荷車を一台?」
「王牙を直した道具だ。国宝より丁重に扱っても足りぬ」
言葉だけ聞けば、褒められている。
でも荷車には、可動鏡だけでなく、若葉の保存筒、細綱、替え刃、接合材の箱まで載っていた。次の治療へ持っていく物ばかりだ。
工具鞄の底へ残していた乾燥肉まで、三日分ずつ包み直されていた。私が作業を始めると食べ忘れるから、一包みだけ開ければ一食になる量だ。
誰かを旅から外す荷造りにしては、あまりにも丁寧だった。
「全部積んだら、私は何で診るんですか」
「しばらく診る必要はない」
また、答えが速かった。
ヴァルドは旅程図の一枚を巻き、私へ渡した。
「獣王領から王都へ抜ける北の道は、橋が二本落ちている。南へ回れば三日増える。余が先に飛び、安全を確かめる」
「その間に工具を整備します。荷車は次の宿場まででいいですね」
「店までだ」
紙の端が、指の中で鳴った。
「どの店ですか」
「そなたの工具店以外にあるまい」
私は地図を開いた。
二枚あると思っていた旅程図は、同じ道の控えではなかった。ヴァルドが持つ方は、谷を出て王都へ向かう。私へ渡された方は南へ折れ、三つの火山の麓で終わっていた。
古い工具店へ戻る道だった。
「私は整備が終わったら、どこで合流します?」
「合流は要らぬ」
囲いの外で、荷車の縄が締められた。
一回。二回。三回。
私がいつも工具鞄を固定する結び方だった。教えた覚えはないのに、ヴァルドは旅の間ずっと見ていたらしい。
荷を落とさないための、正しい結び方だ。
宛札には、私の店の名が書かれていた。
その下に、もう一行ある。
護送対象――リタ・アルデン、一名。




