第26話 五十七本の返事を、一本ずつ戻す
五十七本が消えても、五十七頭は消えなかった。
ミオが隣の脚へ鼻先を当てる。角の一頭が土を二度かき、その震えを後ろへ渡した。翼の列では、畳んだ羽が肩から肩へ触れていく。
王牙へ返事は戻らない。それでも群れの中では、合図が動いている。
「北列、止まれ」
ラシャの命令に反応したのは、彼女の声が届いた手前の三頭だけだった。奥の列は前へ詰まり、最後尾の幼獣が谷壁へ押される。
「声を強くしないで!」
「届かなければ、命令にならない」
「今は届かないんです。強く噛めば、折れた面へ力が戻ります」
ラシャの右手が上がった。自分から止めた。
その横で、デルクはヴァルドにつかまれた腕を見ようともせず、外側の牙枠へ目を向けていた。
「群れは残っている。王の道がなくても動ける」
「だから続けていい試験にはなりません」
「まだ誰も落ちていない」
「落ちるかもしれない場所へ、聞かずに立たせたんです」
言い終わる前に、牙枠が鳴った。
五十七の革輪は、返事を逃がすために一つずつ滑るよう作った。けれど王牙の根元で道を塞がれたいま、すべての輪が途中で止まり、三本の板を中央へ引いている。
白い線を引かれた細い鋲は逃げなかった。デルクが半目盛り、奥へ押し込んだからだ。
「中央が割れる!」
トルカが叫ぶ。
デルクはヴァルドにつかまれた腕を支点にして、空いた方の腕を牙枠へ差し込んだ。
中央の試験片が折れた。
弾けた板が、鞭のように群れへ走る。
デルクは工具巻きを腕へ巻きつけ、白い線の前へ差し出した。板が革を裂き、石灰色の袖へ食い込む。身体ごと振られても、手は離さなかった。
「右へ三歩。翼は伏せろ」
声量は変わらない。
トルカが群れを右へ逃がし、ヴァルドが残る二本の板を押さえた。ラシャは命令を重ねず、最後尾から名を呼ぶ。鼻先と足と翼の合図で、三つの列が少しずつほどけていった。
私は折れた板の端を革で包んだ。デルクの腕には浅い切り傷が一本あった。血はにじんでいたが、指は動いた。
「割れる場所を知っていたんですね」
「俺が薄くした」
「群れへ向かって弾けることも」
「だから、ここに立った」
デルクは壊れた目盛り片を拾った。細い鋲の頭に付いていた、戻す量を測る板だった。さっきの衝撃で二つに割れている。
彼は曲がった楔を私へ求めた。
渡したくはない。
でも、目盛りなしで鋲を抜けば、外へ移した一か所の重さまで薄片へ落ちる。
私は楔を渡した。
デルクは平らな部分だけを折れた目盛り片へ重ね、革紐で二か所を結んだ。片方から押しても、反対から引いても同じ長さだけ動く。白い罫書き粉で、半目盛りの位置を引き直した。
壊れた測り板は、前より両側から読める形になった。
「自分も危険な場所へ立てば、勝手に試していいと思っているんですか」
「他人だけを試験線へ置く気はない」
「聞いているのは、そこじゃありません」
ラシャがデルクの前へ立った。
「私は王牙を失う覚悟を答えた。五十七頭の返事を奪う許可は出していない」
デルクは目をそらさなかった。
「一頭の王が欠けただけで全頭が崩れる。その仕組みを残す方が危険だ」
「その診断と、おまえの許可は別だ」
ラシャの言葉は短かった。
デルクは謝らない。試験を誤りとも言わない。
それでも、直した測り板を私へ差し出した。
「鋲は白い線まで戻して止めろ。できた隙間から、一頭分ずつ輪を逃がせ」
正しい手順まで拒めば、傷つくのはデルクではない。
私は測り板を受け取った。
「最初はミオです」
「強い個体から戻せ。支えが持つか早く分かる」
「一番遅い返事が通れば、ほかの五十六頭も急がせずに済みます」
トルカが五十七の革輪から、ミオにつながる一つを持ち上げた。ヴァルドは残る二本の板を同じ印で押さえる。デルクには、ラシャの許可を得て、直した測り板だけを持たせた。
「半目盛りより進めたら、余が今度こそ腕を折る」
「工具を持つ手は残せ」
「注文する立場か」
私は二人の間へ細綱を通した。
「強く引き続けたら、全員止める。ラシャは命令を送らず、名前だけ呼んでください」
ミオはまだ浅く息をしている。
ラシャが膝をつき、短く吸った。少し待つ。細く吐く。
「ミオ」
幼獣が鼻先を隣へ当てる。
デルクが鋲を白い線まで、半目盛りだけ戻した。
止まっていた革輪の束に、指一本分の隙間ができた。トルカがミオの輪だけをそこへ通し、元の滑り溝へ掛け直す。私は節付き測り針で輪を押し、戻りも引っ掛かりもないことを確かめた。
若葉に、細い折れ目が一つ戻る。
王牙の奥から、遅い震えがラシャへ届いた。
「いる」
ラシャはそれだけ答えた。
ミオの道を開いたまま、二頭目へ進む。角が土をかく。輪を一本、隙間へ通す。三頭目は肩を触れる。もう一本。
十頭目で中央の板が沈んだ。
ラシャの右手が上がるより早く、三頭前の魔獣が足を二度鳴らした。合図が隣から隣へ渡り、ミオが鼻先を上げる。
私は細綱を強く引き続けた。
全員が止まった。
デルクも手を離した。
王の命令が届く前に、群れが治療を止めた。
「これが、おまえの見たかった証明か」
ラシャが聞く。
「そうだ」
「なら、もう私たちのものだ。おまえの試験ではない」
私は測り針を板と王牙の間へ差し、根元寄りの痛みをラシャへ尋ねた。一度。奥は遅れて、さっきより浅く一度。外へ渡した一か所の重さは戻っていない。
沈んだ板へトルカが革を一枚重ねた。デルクは破断線の外から、結び目の位置だけを答える。ラシャが許可した作業だけを、外から手伝った。
再開した。
二十七頭。十九頭。十一頭。
一頭ずつ名前を呼び、一頭ずつ外の合図を確かめ、一頭分だけ輪を滑り溝へ逃がす。鋲は白い線より戻さない。ラシャは三度右手を上げた。群れは四度、王より先に止めた。
五十七本目が若葉へ戻ったとき、王牙はまだ外から立っていた。
外へ移した一か所の重さも、薄片の残る二か所も変わらない。折れた試験片は革でつないだだけだ。恒久の支えにはならない。
治療は終わっていなかった。
けれど五十七の革輪には、王牙から戻る震えとは別の動きが残っていた。
鼻先から脚へ。脚から翼へ。翼から次の肩へ。
王を通らない返事が、五十七頭の外側を一周していた。




