第25話 王の牙を、外から立たせる
給水橇の荷帯が、牙支えより先に切れた。
水樽が傾き、休んでいた魔獣の列へ滑る。ミオは胸帯を直したばかりで、急には立てない。
「右へ逃がせ!」
ラシャが名を呼ぶより早く、石灰色の上着を着た男が橇の下へ片膝を入れた。
水樽を力で押し返さない。切れた帯の留め金へ短い革を通し、反対側の帯と二本に分ける。樽の重さが片膝から左右へ逃げ、橇はミオの鼻先三歩で止まった。
男は水樽の栓を確かめ、こぼれなかった水を群れの桶へ戻した。
ラシャは桶の数ではなく、最後に水へ届いた一頭まで名を呼んだ。返事がそろう間、男は礼を待たず、切れた帯を裏返して裂け目の始まりを指で探っていた。
「丈夫な帯を一本足すと、次も同じ留めから切れる。二本へ分ければ、片方が切れても止まる」
トルカが直した箇所を逆向きに引いた。
「誰だ」
「デルク。負荷を試す職人だ。谷道の橇と橋を見ていた」
差し出された木札をラシャが確かめる。谷道の検査印は本物らしい。けれどラシャもトルカも、デルク本人とは会ったことがなかった。
男の親指には、白い罫書き粉が残っていた。古い工具巻きから出した刃も目盛りも、そこだけは欠けていない。
私はラシャの王牙へ触れた。
五十七の革輪は、一頭ずつの返事に合わせて滑っている。けれど、歯色の薄片が内側で受けている三つの重さまでは、外へ渡せていない。
左奥歯二本の仮設噛み止めも、前腕毛を編んだ入口の輪も残っている。いま動かしていいのは、外側の牙支えだけだった。
「この牙にも、二本へ分ける支えが要ります。正確には三か所です」
デルクは私の節付き測り針を見た。次に、捨てずに置いてあった曲がった楔を見る。
「失敗した方も残すのか」
「どこで挟まれたか、形が覚えています」
「いい道具だ」
褒めたのは私ではなく、曲がった楔だった。
デルクは王牙へ手を伸ばす前に、ラシャを見た。
「触る。痛みは群れの数でなく、自分の場所を答えてくれ」
「許す。根元が一度、奥が遅れて一度だ」
今度のラシャは、最初から自分の痛みを答えた。
私が測り針で確かめた三つの出っ張りを、王牙の外側へ印す。根元寄り、折れた面の中央、先寄り。
デルクは工具巻きから、幅の違う試験片を三本出した。どれも橋や橇の補強へ使うありふれた板だった。私の印へ合わせて切り、端だけを王牙の曲線へ曲げる。トルカが革を重ね、既存の牙支えへ縫い足した。
初めから王牙用の道具を持っていたわけではない。それでも、材料を選ぶまでが速すぎる。
一枚で固めない。三本の板を、五十七の輪の間へ通す。
ヴァルドが板の端を押さえた。
「余はまた万力か」
「三本とも同じ強さで」
「注文への返答になっておらぬ」
文句は多いが、三本の印は一度もずれなかった。
デルクは板をつなぐ留め鋲を一本だけ細く削った。
「そこだけ弱くするんですか」
「返事を止めるほど締まれば、牙より先にこの鋲が逃げる。壊れない支えは、壊す場所を選べない」
正しい。
トルカも鋲の内側へ手首を入れ、板を逆へ引いた。細い鋲だけが半歩ずれ、革輪は締まらない。
私たちは外側の牙枠を、ラシャの王牙へ当てた。
「北列から返事をもらいます」
ラシャが最後尾から名を呼ぶ。
一頭目。二頭目。三頭目。
革輪が別々に滑り、三本の板へ小さな震えが散った。十頭目で中央の板が沈む。細い鋲が白い線まで逃げ、それ以上は締まらなかった。
ラシャの右手が上がる。
私たちはそこで止めた。デルクも異議を挟まず板から手を離す。ラシャの肩が下がると、細い鋲は元の目盛りまで戻った。
返事は一本も消えていない。
「持った」
私が言うと、デルクは首を横へ振った。
「まだ、壊れていないだけだ。内側の支えを一つ外して、初めて移ったと言える」
その言い方に、ヴァルドの金色の目が細くなった。
「誰に教わった」
「折れた物にだ」
デルクは答えを短く切った。
私は命綱をヴァルドへ、測り針の細綱をトルカへ渡した。デルクには外側の三本の板だけを頼む。
ヴァルドが先に水筒を押しつけてきた。
「何度も入った手で、また急ぐな。水を飲め」
「任務のためですか」
「工具ごと落とされては困る」
理由は大げさになったが、水筒の栓は私の指でも開くところまで緩めてあった。
「一番浅い荷重だけ移します。私が二回引いたら中央を一目盛り。強く引き続けたら全部戻して」
「全部は試さないのか」
「患者と五十七頭に聞いてからです」
デルクは返事をしなかった。
王牙の中へ入る。
白い谷には、五十七本の道が光っていた。ミオの一呼吸で薄片の端が浮く。測り針を一節だけ入れ、一番浅い出っ張りへ掛けた。
命綱を二回引く。
外側の牙枠が一目盛り締まり、三本の板へ震えが分かれた。
私は出っ張りを浮かせた。
白い床が傾く。
今まで薄片へ落ちていた重さが、外側から押し返された。五十七本の光は揺れたが、消えない。
一呼吸。二呼吸。
浅い出っ張りは、もう床へ触れていなかった。
重さを一つ、外へ渡せた。
私は五呼吸目を求めず境界へ戻った。
「根元は?」
「一度。奥は、さっきより浅い」
ラシャの答えに、トルカが牙枠を裏から引いた。三本の板は動かず、五十七の輪だけが滑った。
デルクは初めて笑った。
「王牙を立たせる仕事は、できた」
「一か所だけです」
「一か所が消えても残る。仕組みはそこから始まる」
彼は細い留め鋲へ、罫書き粉で一本の線を引いた。
大きな試験へ入る前の印に見えた。
「次は何を壊すつもりです」
「王がいなくても、群れが残るかを確かめる」
「今日はしません」
私は即答した。
「五十七頭へ聞いていない。ラシャも、統率を切るとは言っていません」
「王牙を抜く覚悟は聞いた」
「試験への同意じゃない」
デルクは怒らなかった。
「一本の牙が折れただけで全頭が走る。そこだけは、あんたも正しいと分かっているはずだ」
否定できない診断と、許せない手順は別だ。
そう言い返すより先に、白い線のある鋲が半目盛り沈んだ。
デルクの親指が押していた。
牙枠は壊れない。
代わりに、若葉から五十七本の折れ目が消えた。
「戻して!」
ヴァルドがデルクの腕をつかむ。
細身の身体が浮いても、デルクの声は変わらなかった。
「今抜けば、移した荷重が内側へ落ちる。順に戻せ」
ラシャが口を開く。
「ミオ」
幼獣は顔を上げた。隣の脚へ鼻先も当てた。
けれど王牙の中へは、何も戻らない。
「王なき工房では、壊れる場所を知らない支えを安全とは呼ばない」
牙は、外から立っていた。
その代わり、王と五十七頭の間にあった道が、すべて消えていた。




