第24話 一呼吸ぶん、道を借りる
針は、一本分も進まなかった。
ミオが息を返した瞬間だけ、歯色の薄片の端が浮く。
私は針一本幅の隙間へ測り針を入れた。けれど、先端が爪の下へ届く前にミオの胸がしぼみ、道は閉じた。
薄片の爪が針を挟む。
「引け!」
ヴァルドが命綱ごと私を入口へ戻した。
境界を越えてから、曲がった針を抜く。先端には浅い歯形が二つ残っていた。
「一呼吸では短すぎます」
「なら、開いたままにしろ」
ラシャが右の王牙を見せたまま言う。
「返事で開く道です。固定したら、返事まで止めるかもしれない」
「かもしれない、で群れを待たせるのか」
谷の外では、五十七頭が三つの列に分かれて休んでいる。牙支えの革輪が、寝返りや翼の動きに合わせて一つずつ滑っていた。
急ぐ理由はある。
急いで壊した道具なら、もう一本ある。
私は最初の試験で曲がった留め鋲を拾い、先を平らに削った。刃にはしない。薄片の端へ差し込み、開いた幅だけを保つ小さな楔にする。
トルカが私の手元をのぞいた。
「動く分を、また止めるのか」
「全部は止めません。端の爪一本だけです。外の牙支えで、ほかの五十六本は逃がします」
「外と中で、別々に動けばな」
反対の可能性を、短い一言で残された。
私は楔へ細綱を結び、もう一度王牙の中へ入った。
白い谷には、五十七本の道が弱く光っている。ミオの道だけは、浅い呼吸と同じ間隔で明滅していた。
「ミオ」
外でラシャが名を呼ぶ。
細い返事が根元へ戻る。
薄片の端が浮いた。
私は楔を差し込んだ。
道が閉じない。
今度は測れる。そう思った。
可動鏡の柄へ結んだ若葉から、折れ目が一つ消えた。
ミオの返事が、途中で止まっている。
命綱が強く引き続けられた。
私は楔の細綱を放し、入口へ走った。歯色の爪が閉じ、楔を外へ弾く。ヴァルドが空中でつかみ、トルカは牙支えの一番端だけを緩めた。
外へ転がり出たとき、ミオの隣にいた角の一頭が前脚で土をかいていた。自分の返事ではない。返ってこない幼獣の代わりに、治療を止めろと知らせていた。
ラシャの右手も上がっている。
「今の停止は、あなたが先ですか」
「群れが先だ」
悔しそうな声だった。でも、命令を待たず止めろと言ったのはラシャ自身だ。
ミオが鼻先を隣の脚へ当てる。若葉の折れ目も戻った。
持続する損傷はない。
それでもラシャは、右手を下ろさなかった。
「私が遅れた」
「群れが先に止めたなら、決めた手順どおりです」
「王より先に、王の治療を止めた」
「だからミオの返事が戻りました」
ラシャは幼獣の胸が三度、最後まで膨らむのを見てから、ようやく腕を下ろした。失敗したのは命令が足りなかったからではない。止める判断まで自分一人で持とうとしたからだ。
私は楔を掌へ載せた。薄片を開いたままにすれば作業時間は増える。その代わり、返事は爪のところで止まる。
道は隙間ではなかった。
返事が通り過ぎる一瞬、その動きに借りられる場所だった。
「固定はやめます」
「一呼吸へ戻るのか」
「一呼吸で全部しようとするのをやめます」
曲がった楔を、今度はさらに薄く削った。先端を丸め、三つの小さな節を残す。節と節の間は、ミオの返事で浮いた幅より少し狭い。押し込むのではなく、薄片が浮いた分だけ一節進み、閉じる前に細綱で戻す測り針にした。
一節目だけを爪の下へ入れ、二節目は入口に残す。閉じる方が速くても、挟まれるのは丸い先端だけだ。引けば節の斜面に沿って外れる。
端材の板で同じ幅の隙間を作り、十二回、閉じては引いた。九回目に細綱の結び目がずれたので、最初から結び直す。十三回目で、ようやく三つの節が同じ位置へ戻った。
トルカは細綱へ革の輪を通した。強く引いても一節以上進まない。
「作った手と違う力でも試す」
そう言ってヴァルドへ渡す。
「また余か」
「力が余ってる。今度は半分」
「先ほども聞いたぞ」
文句を言いながら、ヴァルドは刻んだ印の手前でぴたりと止めた。
私は測り針と若葉を持って、三度目の境界を越えた。
一呼吸目。
ミオの返事で端の爪が浮く。針を一節だけ進め、すぐ戻す。薄片の下は空洞ではなく、硬い面へ触れていた。
二呼吸目。
先端を少し左へ向ける。歯の内側から、鈍い震えが返った。
「痛みは?」
私は命綱を一回引いた。
外からラシャの声が届く。
「根元が一度、奥が遅れて一度」
群れの数ではなく、自分の痛みを答えた。
三呼吸目は待った。
ラシャの肩が下がり、ミオの息が最後まで吐かれるまで、誰も名を呼ばない。
ラシャの唇が一度だけ動いた。けれど命令は出なかった。ミオが自分から鼻先を上げるまで待ち、その動きを見てから名を呼ぶ。
王の合図へ息を合わせるのでなく、王が一頭の息へ合わせていた。
四呼吸目。
測り針を奥へ一節。丸い先が、薄片の裏に並ぶ三つの出っ張りへ当たった。三本の太い道へ掛かる爪とは向きが違う。
外ではなく、折れた王牙の二つの面へ向いている。
私は一番浅い出っ張りを、ほんの少し浮かせた。
白い谷の床が左右へ開いた。
牙支えの五十七の輪が一斉に鳴る。
すぐ戻した。
床は閉じた。五十七本の光も消えていない。
薄片は、返事を拾って偽の命令を鳴らしている。
同時に、折れた王牙が二つへ割れきらないよう、内側から支えていた。
外から入れられた物なのに、もう王牙の重さを受けている。
私は五呼吸目を求めず、境界へ戻った。
「分かりました」
ラシャとトルカが、同時に薄片を見る。
「抜けば、偽の命令は止まります。でも今抜けば、王牙が二つに割れる。五十七本の道も一緒に裂けます」
「なら、牙ごと捨てる」
「捨てる前に、支えている重さを受け取ります」
私は外側の牙支えへ触れた。
五十七の輪は返事を逃がせる。でも、折れた面そのものの重さまでは持てない。
「この薄片の代わりを外へ作ってから、内側の爪を外します」
トルカが革の継ぎ目を引き、ラシャは今度こそ自分の痛む場所を指で示した。
ヴァルドだけが、歯色の薄片をにらんでいる。
「群れを乱す物が、牙も救っていたというのか」
「救ったとは言いません」
今日割れないように支えながら、明日、自分では立てなくしている。
抜くべき異物は見つかった。
次に必要なのは、抜いた後も王牙が立てる支えだった。




