第23話 王の牙を、一頭ずつ緩める
「ミオ、伏せろ」
ラシャが言うと、幼獣は前脚を折った。
けれど胸に巻かれた革帯が土へ引っかかり、浅い息がさらに短くなった。
革紐を腕いっぱいに巻いた女が、群れの横から滑り込む。留め金を外さず、指一本分だけ帯をずらした。
ミオの胸が、今度は最後まで膨らんだ。
「締めれば止まる。止めたら歩けない。群れの装具は、動く分を残して支えるんだ」
女はトルカと名乗った。傷ついた魔獣の脚当てや荷帯を作る装具師だった。
私は、折れ目の増えたアステルの若葉を見せた。
「この五十七本が、一頭ずつの返事です。歯の中の薄片は、その返事へ爪を掛けています」
「全部を固めたら?」
「返事ごと裂けます」
「なら同じだ。牙にも、動く分を残す」
答えが早かった。
私は王牙の外へ当てる薄い金属板を三本切った。北、南、崖上。薄片の爪がまたぐ三本の太い道に合わせる。
トルカはその上へ革を重ね、端を輪にした。
「一枚板では駄目か」
ラシャが聞いた。
「早く作れます。でも、一頭が返事をするたび、全員の道を引っ張ります」
「三枚なら三群だけで済む」
「まだ多いです。まず、どこまで危ないか試します」
王牙の入口には、ラシャの前腕毛を編んだ輪が残っていた。私はその外側へ三本の板を仮留めした。
ヴァルドが後ろから命綱を拾う。
「今度は何を見ればよい」
「留め鋲と、ラシャの右手と、群れです」
「三つか」
「私も見ます」
「ならば四つだ。己を数から外すな」
言い返す前に、ラシャが口を開いた。
「北列、顔を上げろ」
二十七頭が動く。
王牙が震え、北側の板が内へ沈んだ。革の輪は持ちこたえた。
「痛みは?」
「北列に負傷なし」
「あなたのです」
「南列、耳を伏せろ」
十九頭の返事が戻った。
二枚目が沈む。最初の板まで引かれた。三本をまとめた留め鋲が、白く曲がる。
ラシャの右手は上がらない。
でも、肩は息を吸った位置で止まっていた。
「中止!」
私が叫ぶより先に、命綱が腰へ食い込んだ。ヴァルドが私を引き、トルカが革の輪を切る。
留め鋲が弾けた。
ヴァルドの爪が空中で受け止める。王牙へは当たらなかった。
三本の板は、牙を支えたのではない。三群ぶんの返事を一か所へ集め、ラシャへ押し返していた。
「痛いなら、手を上げてください」
「崖上の十一頭が残っている」
「だから止めたんです」
「全部を確かめねば、道は作れない」
「確かめる前に固定具が壊れたら、治療路もありません」
ラシャは曲がった鋲を見た。
「次は耐える」
「患者が耐えることを、道具の強さに数えません」
金茶の目が、私から外れた。
ラシャは何も命じず、谷壁の空いた囲いへ歩いていった。ミオだけが、遅れてその後を追う。
囲いの中に群れはいなかった。
ラシャは膝をつき、ミオの鼻先へ手を置く。
短く吸う。少し待つ。細く吐く。
幼獣の乱れた呼吸へ、自分の息を合わせていた。
「その速さなら、答えられるんですね」
ラシャは振り向かなかった。
「ミオは急がせると、息を返せない」
「あなたもです」
「私は王だ」
「今は患者です」
私の横で、トルカが切った革帯を指へ巻いた。
「装具は強い方へ合わせない。一番遅く動く脚へ合わせる。置いていくなら、支えじゃない」
ミオが鼻先をラシャの手へ押し返した。
弱く、遅い。でも返事は届いた。
私は若葉の五十七本の折れ目を、もう一度広げた。
三群へ分けるから、三枚が一緒に引かれる。
一頭ずつの返事に、板を動かす隙間を渡せばいい。
新しい金属板は切らなかった。
曲がった三本を薄く削り、互いに重ならないよう並べる。トルカが長い革紐を通し、若葉の折れ目に合わせて五十七の小さな輪を作った。
二十七。十九。十一。
合計は同じでも、輪は一つずつ別に動く。
トルカは牙へ触れる側へ、自分の手首を差し入れた。
「竜王。北の紐だけ引いて」
「余は竜王だ」
「だから力が余ってる。一本だけ」
ヴァルドが渋い顔で紐を引く。
北側の輪が滑った。ほかの二本は手首へ食い込まない。
トルカは道具を裏返し、今度は自分が外から引いた。革の継ぎ目が逆向きでも開かないことまで確かめた。
「作った者の手からしか安全に使えない装具は、群れの中じゃ牙になる」
私は三本の板を押さえ、端から順に揺らした。どれか一枚を動かしても、ほかの板は遅れてついてこない。
固めるための固定具ではない。
動いた場所だけを逃がし、折れた場所を支える道具だった。
「名を呼んでください。命令ではなく、返事をもらうために」
ラシャが立ち上がった。
「痛ければ、今度こそ右手を」
「右手を上げる前に、おまえが止める」
「順番が逆です」
「両方やれ」
ヴァルドが鼻を鳴らした。
「ようやく患者らしい注文だ」
牙支えを当て直した。
ラシャは最後尾から名を呼ぶ。
角が土をかく。翼が一度閉じる。鼻先が隣の肩へ触れる。
一頭の返事が戻るたび、小さな革の輪だけが滑った。板は沈まず、王牙の震えに沿ってほんの少しずつ緩む。
二十頭目で、ラシャの右手が肩まで上がった。
私は止めた。
牙支えは壊れなかった。
ラシャが息を吐くまで待ち、二十一頭目から再開した。
五十五。五十六。
「ミオ」
幼獣はすぐには動かなかった。
ラシャも急かさない。
短く吸う。少し待つ。細く吐く。
同じ速さで二つの胸が動いた。
ミオが鼻先を隣へ当てる。
最後の輪が滑った。
私は可動鏡を王牙の入口へ差し入れた。歯色の薄片はまだそこにある。櫛の爪も、五十七本の返事へ掛かったままだ。
ただ、一番端の爪だけが浮いていた。
針一本が通る幅だった。
「抜けるか」
ラシャが聞く。
「今は抜きません。でも、傷つけずに入れる道ができました」
トルカは牙支えの革を引き、どの輪も戻らないことを確かめた。
「この道具は誰の命令で止める」
ラシャはミオを見た。
「一頭でも返事が途切れたら、止めろ。私の命令を待つな」
群れへ渡されたのは、王の命令ではなかった。
治療を止める権利だった。
道は一本、開いた。
けれど爪が浮くのは、ミオが息を返した一呼吸だけだった。




