第22話 王の牙には、五十七本の道がある
王牙の中へ入る前に、ラシャは五十七頭の名を呼んだ。
北の列に二十七。南に十九。崖上に十一。
足せば五十七だ。でもラシャは総数を言わず、最後尾から一頭ずつ名前を呼んだ。
返事は鳴き声だけではない。鼻先を隣へ当てる。翼を一度たたむ。前脚で土を二回かく。
「ミオ」
最後に呼ばれた幼獣が、浅い息の合間に顔を上げた。
「全頭いる。入れ」
「一頭でも返事がなかったら?」
「先に捜す」
折れた牙より先に。自分の痛みより先に。
この人は本当に、群れを数ではなく名前で見ている。
ラシャの左奥歯には、さっき作った仮設の噛み止めが入っている。二本へ力を分けた金属板は曲がっていない。革紐も緩んでいなかった。
右の王牙は口を開けたままでも、ときどき細く震える。
原因は、割れた面の接触だけではない。
「入口を支える材料が要ります。あなた自身のものを」
ラシャは迷わず、淡褐色の前腕から短い毛をひとつまみ抜いた。
「これで足りるか」
「牙を抜いて渡されるよりは扱いやすいです」
「必要なら抜く」
「必要でも、今は抜きません」
ヴァルドが横から低く唸った。
「患者へ先に言わせるな、歯医者」
私は毛を入口の輪の内側へ薄く編み込んだ。輪を王牙の空洞へ当てると、金属がラシャの力になじみ、割れ目の奥に白い縁が立った。
弱くなったアステルの若葉は、道を見るため可動鏡の柄へ結ぶ。
命綱はヴァルドへ渡した。
「ラシャが右手を上げたら一回。止めるなら強く引き続けて」
「群れも見ろとは言わぬのか」
「見てください。患者だけ見て、外で何が起きたか分からないのは困ります」
「注文が増えたな」
「海で増やしました」
ヴァルドは文句を言いながら、綱を一度だけ正確に引いた。
私は白い縁を越えた。
王牙の中は、洞窟というより谷だった。
白い床に細い道が何本も刻まれ、根元から奥へ枝分かれしている。道の表面には爪、蹄、翼の先に似た光が走った。遠くで魔獣が身じろぎするたび、一つの道から小さな震えが戻ってくる。
命令を一方的に送るだけの場所ではない。
王から群れへ向かう力と、群れから王へ戻る返事が、同じ道を行き来していた。
私は若葉を一つずつ道へかざした。
五十五。五十六。
最後の一本だけ、戻る震えが細く、間隔も乱れている。
ミオの浅い呼吸と同じだった。
五十七本。
今この谷でラシャへつながっている、全頭分だった。
ラシャが呼んだ名前と、王牙の道の数は一致した。
そのとき、谷の奥で大きな音が鳴った。
口を開けたまま出た、群れを遠ざける合図だ。
いちばん強く震えた道へ、私は小さな留め具を掛けた。
音を止める。
そう考えたのが間違いだった。
命綱が短く一回引かれる。
白い床が大きく傾いた。留めた道の奥で、細い光が何度もぶつかる。外から戻ってきた震えの逃げ場を、私が塞いでいた。
ミオの道だ。
私は留め具を外した。
床の傾きが戻る。浅い震えも、また根元へ届き始めた。
強く鳴ったから、原因だと決めた。
患者の声が小さいときほど、周りの音は大きく聞こえる。それを、私はもう知っていたはずなのに。
「ごめん。今のは私です」
外へ届くはずもない謝罪を言い、膝をついた。
音の大きさではなく、向きを見る。
自然な五十七本は、根元から群れへ向かい、同じ道を返事が戻る。
さっきの合図だけは違った。
王牙の割れ目から内側へ入り、道を横切っている。
私は可動鏡を床すれすれへ差し入れた。
白い道の下に、歯と同じ色の薄片があった。
表面だけを見れば、割れた王牙の一部に見える。けれど鏡の光を斜めに当てると、歯にある細かな層がない。薄片の端には、櫛のような細い爪が並んでいた。
爪は三本の太い道の下へ入り、その間にある細い返事の道まで引っかけている。
私は測り針で、一番端を軽く押した。
薄片がしなった。
群れから戻る震えを受け、反対側の爪が「離れろ」の道を一度たたく。
足元の石が、細く鳴った。
ラシャが噛まなくても命令が出た理由は、これだった。
割れた面が触れれば、王へ集める道と遠ざける道が二度鳴る。口を開けていても、この薄片は群れから戻る小さな合図で揺れ、遠ざける道だけをたたく。
外から混ぜられた物だった。
ただし、黒くはない。
黒い糸とも、二本刻みの留め金とも違う。表面に印もなかった。納品票の名を、そのまま犯人の名へはできない。
私は細い鉤を薄片の端へ掛けた。
持ち上げる前に、三本の太い道が一緒に沈む。
その下では、五十七本の返事が絡んでいた。
引けば異物だけでなく、ラシャが一頭ずつの状態を受け取る道まで裂ける。
私は鉤を戻した。
抜ける物を、抜かずに帰る。
悔しい。でも、今度はそれが正しい。
境界を越えると、ラシャは右手を下ろした。ヴァルドは私の腰が床へ着くまで命綱を緩めなかった。
「何も抜いておらぬな」
「抜ける形でした。でも、抜けば返事の道も裂けます」
「ならば、手を出さず戻ったことも仕事だ」
「中に、道が五十七本ありました」
「全頭分か」
「一本ずつ、あなたへ返事を返しています。群れは命令を受けるだけじゃない」
ラシャはミオを見た。
幼獣が隣の一頭へ鼻先を当てる。その小さな動きは、王牙の中まで届いていた。
「口を開けたまま鳴るものは」
「外から入れられた薄片です。でも、誰が入れたかはまだ分かりません。今抜けば、五十七本の道も傷つけます」
「王牙を失っても、群れが残るなら構わない」
「王牙だけでは済みません」
私は可動鏡の柄から若葉を外した。
葉先には、五十七本の震えが細かな折れ目として残っている。
「異物へ届く道を作るには、どの合図が誰のものか、外から一つずつ確かめる必要があります」
ラシャは初めて、自分の牙ではなく、散っていく三つの群れへ口を開いた。
「なら、五十七頭に聞け」
次の治療器具は、王の命令だけでは作れない。
一頭ずつの返事が必要だった。




