第21話 王の牙は、二つ命令する
獣王は、止まれと言った。
魔獣たちは、私たちへ突っ込んできた。
「右へ避けろ!」
ヴァルドに襟をつかまれ、身体が宙へ浮く。
次の瞬間、角のある魔獣が三頭、さっきまで私のいた岩を踏み砕いた。先頭は谷の奥へ逃げようとしているのに、後ろの二頭は獣王のいる方へ戻ろうとしている。互いの腹へ角を入れ、前にも後ろにも進めない。
海王の治療から二日後。
私たちは「王なき工房」の納品票を追い、海から内陸へ続く谷道まで来ていた。
そこで見つけたのが、三つの群れだった。
角の群れは上流へ、翼の群れは崖の巣へ、爪の群れは谷の外へ向かおうとしている。それなのに、谷の中央へ来るたび全員が向きを変え、同じ狭い道へ殺到した。
私は踏み割られた岩の脇へしゃがんだ。
土には、外へ向かう足跡と、途中で谷へ折り返した足跡が重なっている。傷ついた角の魔獣にも、噛まれた跡はなかった。左の腹だけが同じ高さで擦れている。互いを襲ったのでなく、同じ瞬間に違う方向へ動かされてぶつかった傷だ。
三歩進む。向きを変える。二歩戻る。
繰り返す間隔まで、三つの群れでそろっていた。
「敵に追われている走り方じゃない」
「ならば何から逃げておる」
「まだ分からない。でも、自分で選んだ道からは逃げています」
道の先には、低い柵と人家の屋根が見える。
「余が谷を塞ぐ。貴様は下がれ」
ヴァルドは私を岩陰へ下ろし、両腕だけを黒鉄色の竜へ戻した。
「火は使わないで。もっと混ざる」
「ならば、余を柵に使う気か」
「いちばん丈夫な柵です」
「褒めておらぬな」
文句を言いながら、この人は誰より正確に谷の細い場所へ立った。
翼の魔獣が低く突っ込む。
その前へ、淡褐色の腕が伸びた。
女は片手で翼の付け根を受け、身体を半回転させた。勢いを殺された魔獣が砂の上を滑る。女は倒れず、その腹の下へ転がっていた小さな一頭を反対の腕で抱き上げた。
「北列、伏せろ。ミオ、顔を上げろ」
短い声だった。
近くの翼は伏せた。
遠くの角の群れは、逆に頭を上げた。
女が奥歯を噛み締める。その右上の太い牙は、先が斜めに折れていた。
足の下で、石が二度震えた。
一度目は強く、二度目は細い。
角の群れが、またこちらへ向きを変える。
女は崖を一度見上げ、翼の群れが落とす影を数えた。次に、角の群れの最後尾へ視線を移す。中央の大きな個体ではない。左脚を引きずり、列から遅れた一頭を見ていた。
「西の石棚を空けろ。負傷した三頭から通す」
命令を受けた近くの群れだけは、きれいに道を開けた。
この人には、群れを動かす力がある。
足りないから混乱しているのではない。正確な命令へ、壊れた何かが別の意味を重ねている。
「ヴァルド、あと十歩だけ持たせて」
「十歩で何をする」
「患者に、口を開けてもらう」
私は岩陰を出た。
女の金茶の目が私を捉える。抱かれた幼獣の息は浅いが、血は出ていない。女は自分の折れた牙より先に、幼獣の胸を二度確かめた。
「歯医者のリタです。獣王ですね」
「ラシャだ。名乗りは後でいい。北が二十七、南が十九、崖上が十一。次の合図まで半刻もない」
「右の牙は、いつから痛みますか」
「南の列が四頭遅れている」
「それは群れの症状です。あなたの痛みを聞いています」
「私が答えている間に、一頭死ぬ」
「折れたのは、群れが乱れる前ですか、後ですか」
「三日前だ。谷へ落ちた二頭を引き上げるため、全群へ同時に止まれと送った。その直後に割れた。乱れたのは翌朝からだ」
順番は、牙が先、暴走が後。
私は頭の中で二つの出来事を別の箱へ入れた。折れた原因と、折れた後に命令が乱れた原因は、同じとは限らない。
ラシャは幼獣を地面へ下ろし、また顎へ力を入れた。
「噛まないで!」
私が叫んだのと、石が二度震えたのは同時だった。
爪の群れが跳ね起きる。
ヴァルドが両腕を地面へ突き、群れの先頭を黒い鱗で受け止めた。火は出さない。押し返しもしない。左右へ逃げられる幅だけを残して、動きを止めている。
「次は九歩だ!」
「増やして!」
「減っておる!」
私は革鞄から、アステルにもらった若葉と小さな可動鏡を出した。
力の弱くなった若葉を岩へ置く。
ラシャが口を閉じると、葉先が二つに裂けるように反対方向へ倒れた。片方は群れを王へ集め、もう片方は王から遠ざけようとしている。
「命令が二つあります。あなたが噛むたび、折れた面が別々の合図を流してる」
「私の命令が、群れを壊していると言うのか」
「あなたの意思じゃない。壊れた牙が、同じ力を二つの意味へ分けています」
「なら、強い方で上書きする」
「それを今までやって、こうなったんでしょう」
金茶の目が細くなった。
怒らせた。でも、牙を噛ませるよりはましだった。
「三呼吸だけ、命令を止めて。何も起きなければ診せてください。崩れたら、私が間違いです」
「間違いなら?」
「ヴァルドが、あと六歩柵になります」
「勝手に余を賭けるな」
抗議が聞こえたが、ラシャは初めて牙を離した。
一呼吸。
群れはその場で固まった。
二呼吸。
角の一頭が隣の首へ鼻先を当てた。押しのけるのでなく、立つ向きを確かめるように。
三呼吸。
翼の群れが、倒れた幼獣を避けて二つに分かれた。
統率が消えたわけではない。
王の命令で聞こえなくなっていた小さな合図が、群れの中に残っている。
ラシャは三つ数え終えるまで、折れた牙を噛まなかった。
それだけで、額に細い汗が浮いている。痛みに耐えている顔ではない。命令しないことに耐えている顔だった。
「口を開けて。今度はあなたを診ます」
ラシャは幼獣から目を離さないまま、片膝をついた。
右上の王牙は、根元近くまで斜めに割れていた。完全には外れていない。噛むたび、薄い破片が本体へ押しつけられ、少し遅れて戻る。その二回の動きが、二つの命令になっていた。
私は左の奥歯へ、清潔な布を巻いた木の噛み止めを入れた。
「軽く閉じて」
ラシャの顎が動く。
木が折れた。
右の割れ目が触れ、谷の石が大きく二度鳴った。
角の群れが一斉に走り出す。
「リタ!」
ヴァルドの腕が群れを受ける。だが、最後尾の一頭だけが横へ抜けた。
ラシャは口を閉じなかった。
「ミオ、右へ」
噛み締めず、名前だけを呼んだ。
先ほどの幼獣が声へ顔を上げた。横へ抜けた一頭も、その動きを見て右へ曲がる。群れは柵の手前で二つに分かれ、ヴァルドの両脇を通り過ぎた。
ラシャは、一頭も捨てなかった。
私は折れた噛み止めを拾った。力を受ける場所が一点だけだった。なら、二本の奥歯へ広げればいい。
薄い金属板を曲げ、布を巻き直す。左右を革紐でつなぎ、顎が閉じきる一歩手前で止まる幅へ合わせた。
「今度は、壊れる前に外せます。痛みが増えたら右手を上げて」
「命令ではなく、合図か」
「患者と歯医者の合図です」
ラシャが噛み止めを受け入れた。
石は鳴らなかった。
乱れていた三つの群れが、少しずつ別の道へ離れていく。
ヴァルドが腕を人へ戻し、砂を払った。
「六歩どころではなかったぞ」
「一頭も柵へ当てませんでした」
「その評価で済ませる気か」
結び目も一度も緩んでいない。あとで、それも言っておこう。
私は可動鏡をラシャの牙の裏へ差し入れた。
割れ目の奥に、細い空洞がある。
王の歯の中へ続く入口だった。
鏡の端で、弱った若葉が揺れた。
足元の石が、細く一度だけ震える。
「いま、噛みました?」
ラシャは口を開けたまま、首を横へ振った。
群れを遠ざける命令は、獣王の意思だけから出ているのではない。
口を開けたままの王牙の奥で、誰かの命令が、もう一度鳴った。




