第20話 海王の歯から、海をほどく
海そのものを、力で止めることはできない。
なら、止めずにほどく。
「右、来るよ!」
マレナの声に合わせ、潮継ぎの右板を開いた。
青い激流が板へぶつかる。
母の手回し軸が動き始めた。
一枚だけ欠けた歯から、強い衝撃が逃げる。
その力を私の真鍮輪へ渡す。
輪から四本の鉤へ。
中に残した潮返しは、今も中央の流れを分けていた。
潮継ぎは、海を止めない。
黒い糸が背負っていた重みを、一本ずつ外へ渡すための道具だ。
命綱が短く引かれた。
右の潮塔が受けた。
青い流れが、わずかに細くなる。
「右が持った!」
マレナが叫ぶ。
「一本目、外します」
右へ伸びる黒い糸へ、第一の鉤を入れた。
切らない。
結び目の隙間を広げる。
黒い糸が締まり返そうとする。
手回し柄が逆へ回ろうとした。
「押さえて!」
「やってる!」
二人で柄へ体重を掛ける。
外では、何十人もの人が同じ力を受けている。
一本目が外れた。
足元が揺れる。
潮は決壊しない。
抜けた瞬間の重みは、潮継ぎを通り、縄を通り、港の潮車へ逃げていく。
腰へ伝わる縄の震え。
一人の怪力ではない。
何十人もの手だ。
「次、左!」
マレナが板の角度を切り替える。
左の潮塔から合図が返った。
第二の鉤を入れる。
左の糸を緩めた瞬間、下から逆流が突き上げた。
身体が浮く。
肩の短い綱が一度引かれる。
マレナが私を引き寄せた。
私は彼女の帯をつかみ、彼女は崖のくさびへ腕を掛ける。
二人分の重みで、浮きかけた潮継ぎを押さえた。
二本目が外れる。
頭上へ上っていた滝の一本が、向きを戻した。
海へ落ちる。
外から細かな振動。
セイルの痛み。
入口の若葉が右へ曲がり、次に左へ曲がる。
「両方?」
「勝手に決めるんじゃない!」
マレナが入口を指す。
向こう側で、セイルが若葉の上へ手を置いていた。
右。
左。
そして、自分の胸を指す。
二つの港。
自分。
全部を見てくれ。
そういう意味に見えた。
「セイル」
私は声を張る。
「続けていいなら、葉を開いてください!」
若葉が、一度閉じる。
もう一度、開いた。
「了解!」
第三の鉤を噛ませる。
右の水鏡を見る潮番。
左の潮塔を守る人々。
患者から目を離さないヴァルド。
判断を、一人へ集めない。
三本目が外れた。
黒い糸がほどけ、潮門の根元が見える。
そこに、母の手回し軸と同じ形の受け金が埋め込まれていた。
「これ……」
潮継ぎの先を合わせる。
ぴたりと入った。
十年前、母の道具から作られた仕組みへ、母の軸と、私とマレナが作った新しい輪が噛み合った。
「最後!」
マレナが初めて、治療中に私の名前を呼んだ。
「リタ!」
第四の鉤を、中央の太い結び目へ入れる。
最後の一本は、二つの港だけではない。
セイル自身へ深く食い込んでいる。
「セイル。口を閉じないで!」
返事はない。
若葉の色が急に薄れた。
二本の命綱が、同時に強く張る。
停止。
私はすぐ手を離した。
最後の糸は半分ほど緩んでいる。
ここで無理に戻れば、潮継ぎまで患部を引く。
精霊王の歯で起きたのと似ていた。
けれど、今回は違う。
私は安全用の留めピンを入れ、両手を離した。
「戻ります!」
「戻るよ!」
マレナも即答する。
二人で入口へ向こうとした。
張っていた命綱が緩む。
一度。
私はヴァルドの側を見る。
二度。
あの合図だ。
一回目で患者を確認する。
二回目で周囲を見る。
少し間があった。
三度目。
すべてを見てから、続けられると判断したときの合図。
入口の向こうで、ヴァルドが水鏡とセイルを順に見ていた。
セイルも若葉へ、もう一度力を流す。
緑が戻った。
さらにマレナ側の綱から、潮番の短い合図。
港も、まだ持つ。
「……戻りますよ」
「どっちへだい」
マレナが笑う。
「患部へ!」
二人で潮継ぎへ戻る。
留めピンを外す。
最後の黒い糸へ手を掛けた。
「合図は?」
「潮は待ってくれないんでしょう」
「言うようになったね!」
手回し柄を回す。
母の軸が、強すぎる力を逃がす。
私の輪が、四方へ分ける。
マレナの師匠から借りた曲がり方が、二つの潮を中央へ戻していく。
重い手応えが、ふっと抜けた。
最後の黒い糸が外れた。
残った黒い繊維がほどけていく。
潮継ぎが受け金へ入り、傾いていた潮門を中央へ戻した。
頭上の海が崩れた。
今度は、空へではない。
本来あるべき海へ向かって。
暖かな潮水が降り注ぐ。
私たちは黒い糸を回収した。
岩から外れた可動鏡も拾う。
中で働き続けた潮返しを畳み、入口へ戻った。
セイルが、ゆっくり口を閉じる。
左右の水鏡では、人々が親綱から手を離していた。
右の港へ海が戻る。
左の港から余分な水が引いていく。
二つの水面が、同じ高さで落ち着いた。
セイルが床へ仰向けに倒れた。
私は息を整え、横へ立つ。
「口を開けてください」
「今、閉じたばかりだぞ」
「術後の確認です」
「歯医者というのは、容赦がないな」
文句を言いながら、開ける。
可動鏡を入れた。
奥歯の青い流れは、左右へ穏やかに分かれている。
黒い糸はない。
新しく入った潮継ぎが、セイルの呼吸へ合わせて小さく動いていた。
「治療完了です」
給仕が、温め直した重湯を持ってきた。
セイルは三日ぶりの一口を飲む。
眉をひそめた。
「味が薄い」
「三日絶食した患者用です」
「塩を、小匙半分だけ足せ」
港の潮位ではない。
初めて、自分のために数字を言った。
「海王なのに塩が足りないんですか」
「余は海水を飲んで生きているわけではない」
背後で、ヴァルドが妙な顔をしていた。
どうやら本当に、海王は海水を飲むと思っていたらしい。
治療後、マレナと工房へ戻った。
黒い糸を保守箱へ並べる。
底の油紙を持ち上げると、その下から一枚の古い羊皮紙が滑り落ちた。
王都の特使団の印。
正式な納品伝票だった。
日付は、母の事故から三か月後。
納入先――海王宮。
品名――潮分け補修用・特殊結束繊維。
そして差出人。
公的な記録では見たことのない屋号が書かれている。
『王なき工房』
母の道具を持ち出した誰かは、事故のあとも仕事を続けていた。




