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竜王の歯医者ですが、虫歯一本がダンジョンになっています  作者: sakumaaa
第三章 海王の逆流

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第18話 竜王は、海では泳げない

 世界最強と呼ばれる竜王にも、苦手なものはあるらしい。


「……沈んでませんか」


『沈んでおらぬ』


 海面から、ねじれ角の先だけが出ていた。


「潜ってるんですか?」


『水深を測っておる』


「翼、ばたついてますけど」


 海中で巨大な翼が動いた。


 一度浮く。


 また沈む。


 竜王は、海では泳げない。


 知らなくても困らなかった知識が増えた。


「遊んでないで引きな!」


 潮塔の足場から、マレナの声が飛んでくる。


 私は太い綱を引いた。


 二つの港には、それぞれ大きな潮塔がある。


 昔、海王の力が乱れたとき、港側で水圧を逃がすために作られた設備だった。


 黒い糸を外す一瞬だけでも、二つの塔へ潮の重みを逃がせれば、セイルの歯だけへ負担を戻さずに済む。


 問題は、十年使われていないこと。


 右は歯車が錆びついていた。


 左は泥へ半分沈んでいる。


 泥を出すため、怪力担当が水路へ飛び込んだ。


 そして沈んだ。


『引け』


「自分は平気で命令しますね」


『今はいいから引け!』


 船大工たちと縄を引く。


 ヴァルドの頭が海面へ出た。


 角には海藻。


 鼻先には小魚。


 船大工たちは誰も笑わない。


 私は笑った。


『見た者は灰にする』


「ここで火を吐いたら、港が煮えますよ」


『覚えておけ』


 悪態をつきながらも、ヴァルドは水路の底から巨大な石輪を持ち上げた。


 潮車の主輪だ。


 マレナが噛み合わせを調べる。


「右は使える!」


「左は?」


「軸を開けてみないと!」


 左の潮塔へ走る。


 中央水路の水は、すでに膝近くまで上がっていた。


 家の前には土嚢。


 住民が荷物を高い場所へ運んでいる。


 それでも、町から逃げる人は少なかった。


 代わりに、縄や滑車を抱えて潮塔へ集まってくる。


 魚市場の荷運び。


 船大工。


 漁師。


 昨日まで王の歯の病気など知らなかった人たちだ。


 自分の仕事道具を持ち寄っている。


 私の工具鞄と同じだった。


 医療用に作られたものでなくてもいい。


 必要な場所で、別の仕事をさせればいい。


「歯医者の娘!」


 初老の船大工が声を掛ける。


「お前はどこをやる!」


「王様の口の中です。潮を外へ渡します!」


「地上は俺たちへ任せろ!」


 当たり前のように言った。


「海王様が口を開けるのは?」


「今夜です!」


「この潮車を人力で回すのか?」


「その予定です」


「何人いれば足りる?」


 答えに詰まった。


 王の力に近い海流を、人の腕で受け止めた記録なんてない。


「動くまでだ!」


 マレナが走ってきた。


「止めるなと言うまで回す。止めろと言ったら、一斉に手を離す。自分より縄を見ろ。隣が倒れたら先に起こせ」


 人々がうなずく。


 一人の王だけへ全部背負わせるより、手順は増えた。


 その代わり、誰が何を見るのかは明確だった。


 左の潮塔の床板を外す。


 私は息を止めた。


 主軸が、きれいに折れている。


 錆ではない。


 断面の半分まで、刃物で切れ込みを入れてあった。


 残りだけを潮の力で折らせる。


 最初から壊すのではなく、次に大きな波が来たときに折れるよう仕込まれていた。


 切り口に、黒い粉がついている。


「昨日まで動いてたんですか」


「十年閉じてた。でも、この傷は新しい」


 マレナが粉を指でこする。


 光を返さない。


 歯の黒い糸と同じだった。


 双潮宮の鐘が、一度大きく鳴った。


「セイルだ!」


 水路の海水が一気に沖へ引く。


 次の瞬間、巨大な波となって戻ってきた。


「全員、上へ!」


 人々が石段を駆ける。


 私は腰の短い綱を、竜の姿のヴァルドの前脚へ巻いた。


『何をする!』


「一回目で私。二回目で周りです」


『覚えておる!』


 鱗の隙間に赤い光が走る。


 沖には、逃げ遅れた小舟が三艘。


 ヴァルドが翼を開いた。


 ここで炎を吐けば、波だけでなく船まで危ない。


 綱を一回引く。


 赤くなりかけた目が、私を見た。


 続けて二回。


 視線が港全体へ動く。


 避難する人。


 開けた水路。


 右の潮塔。


 使えるものは、まだある。


「三回目、必要ですか!」


 ヴァルドの喉の赤い光が消えた。


『……まだ要らぬ』


 身を翻す。


 太い尾を潮塔の親綱へ巻きつけた。


 引く。


 潮車が回り始める。


 船大工たちも続いた。


 右の水門が開く。


 押し寄せる水の一部が、外海へ逃げた。


 残る波へ、ヴァルド自身が水路へ入る。


 黒鉄色の背中が、防波堤になった。


 押し返さない。


 波を左右へ逃がしながら、小舟の通る隙間だけを翼で守る。


 一艘。


 二艘。


 三艘。


 最後の船が内港へ入った。


 波は石段の途中まで上がり、そこで力を失った。


 ヴァルドはすぐには立ち上がらない。


 二回目で見た港を、もう一度確認していた。


 避難した人。


 潮塔。


 波が引く方向。


 全部見てから、ゆっくり立ち上がる。


 目は赤くなっていなかった。


 代わりに、大量の海水を吐いた。


『……塩辛い』


「海ですから」


『海王は毎日これを飲んでおるのか』


「飲んでません」


 たぶん。


 マレナが折れた軸を抱え、塔から降りてきた。


「右は戻った! 左も今夜中に直す!」


「間に合います?」


「あたし一人なら無理だね」


 彼女は、縄を握ったまま残っている人々を見た。


「でも、これだけいる。夜明けまでには動かすよ」


 私は折れた軸の黒い粉を、油紙へ包んだ。


 歯の黒い糸だけではない。


 潮を逃がす地上の設備まで、誰かが壊そうとしていた。


 王の歯だけ治せば終わる話ではなくなっていた。

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