第18話 竜王は、海では泳げない
世界最強の竜王にも、苦手なものはある。
「沈んでませんか」
『沈んでおらぬ』
海面から、角だけが出ていた。
「では、潜っている?」
『水深を測っておる』
「翼で?」
黒鉄色の翼が海中でもがいた。
大きな身体は少し浮き、また沈んだ。
竜王は海では泳げない。
新しい発見だった。
「笑ってる場合じゃないよ!」
港の潮塔から、マレナが怒鳴る。
私は縄を巻く手へ力を戻した。
右の港と左の港には、それぞれ古い潮塔がある。海王の力が強すぎたとき、港側で潮を逃がすための設備だ。
黒い糸を抜く間だけ二つの塔へ流れを預けられれば、海王の歯一つですべてを支えずに済む。
問題は、十年使われていないことだった。
右の塔は歯車が固まり、左の塔は水路の底へ半分沈んでいる。
まず泥をさらうため、ヴァルドが水路へ入った。
そして、沈んだ。
『引け』
「命令するなと言うのに、自分はするんですね」
『今はよい!』
港の職人たちと縄を引く。
ヴァルドの頭が海面へ出た。角には海藻が絡み、昨日とは違う魚が一匹乗っている。
誰も笑わなかった。
私は少しだけ笑った。
『見た者は焼く』
「今、火を使ったら港が温泉になります」
『では覚えておく』
竜王は水路の底から、泥に埋まった巨大な輪を持ち上げた。
人の背丈より大きい潮車だ。
マレナが歯を確かめる。
「使える。右はこれで戻る」
「左は?」
「軸を開けてみないと」
左の潮塔まで走る。
二つの港を結ぶ中央水路では、水位が膝まで上がっていた。家々の前に土嚢が積まれ、住民が家具や食料を高い場所へ運んでいる。
逃げる人は少なかった。
代わりに、使える縄を持って潮塔へ集まってくる。
魚を運ぶ籠屋が細い縄を束ね、船大工が濡れた滑車を分解していた。昨日まで海王の歯を見たこともなかった人たちが、自分の仕事から使える物を持ち寄っている。
私の工具鞄と同じだった。
最初から治療用に作られた物ばかりではない。必要な場所で、別の働きを与える。
「歯医者は、どこを持つ」
年配の船大工が聞いた。
「中で、潮を渡します」
「なら外は任せろ」
簡単に言う。
この人たちも、海を相手に何度も失敗してきた顔だった。
「海王陛下が開かれるのは、いつだ」
「まだです」
「潮車は、俺たちが回すのか」
「その予定です」
「何人要る」
聞かれて、答えに詰まった。
海王の力を、人が回す潮車へ預けた例はない。
「動くまでです」
マレナが答えた。
「止めるなと言うまで回す。止めろと言ったら、一斉に手を離す。自分より縄を見ろ。隣が倒れたら先に起こせ」
人々がうなずいた。
王一人へ任せるより、ずっと命令が多い。
けれど、誰が何を見るかはわかる。
左の潮塔へ着き、床板を外した。
軸は、きれいに切れていた。
腐食ではない。
刃物で半分まで削られ、最後だけ潮の力で折れている。
刃の跡は四本。幅も深さもそろい、金属の芯だけをわずかに残してあった。
その場で壊す切り方ではない。強い潮が来たときにだけ折れるよう、壊れる時刻を水へ預けた切り方だった。
切り口へ、黒い粉が残っていた。
「昨日までは動いてた?」
私が聞く。
「十年、封鎖されてた。でも折れたのは最近だ」
マレナが粉を指ですくう。
光を返さない。
海王の歯にある糸と同じ色だった。
そのとき、宮殿の鐘が一度だけ鳴った。
セイルからの警報。
海が引く。
水路の水が沖へ走り、次の瞬間、壁のようになって戻ってきた。
「全員、塔へ!」
マレナが叫ぶ。
人々が石段を駆け上がる。
私は腰の短い綱をヴァルドの前脚へ掛けた。
『何をする』
「一回目で私、二回目で周り」
『覚えておる』
赤い光が、黒鉄色の鱗の隙間へ走る。
押し寄せる波の向こうに、小舟が三艘取り残されていた。沖へ逃げ切れず、こちらへ船首を向けている。
ヴァルドが翼を開いた。
火で波を割れば、船ごと蒸気へ包まれる。
それでも彼の喉へ、赤い熱が集まった。
綱を一回引く。
金色と赤の混じった目が、私を見る。
二回引く。
ヴァルドの視線が、波から港へ動いた。
石段には避難した人々。
水路には泥をさらうため外した柵。
右の潮塔には、引き上げたばかりの潮車。
危険だけではない。
使えるものも残っている。
「三回目は?」
私が尋ねた。
ヴァルドは喉の火を消した。
『まだ要らぬ』
巨大な尾を右の潮塔へ回す。
潮車へ掛けた縄を尾で引き、古い歯車を回した。
港の職人たちが続く。
止まっていた水門が開き、押し寄せた波の一部が外海へ逃げた。
残る波へ、ヴァルドは身体を横たえた。
黒鉄色の背が防波堤になる。
波が翼を叩く。
彼は押し戻さなかった。
力を逃がしながら、小舟が通る隙間だけを残した。
一艘。二艘。
三艘目が尾の横を抜け、港の内側へ滑り込む。
波は石段の半分まで上がり、そこで止まった。
左の市場では木箱が流され、右の船着き場では杭が二本折れている。それでも家は残り、三艘の船も港の中にいた。
ヴァルドはすぐに立ち上がらなかった。
二回目の合図で見た場所を、もう一度確かめている。
石段の人々。潮塔の縄。水路へ残る波。
危険が減ったことを見てから、ゆっくり身体を起こした。
赤い光は戻らなかった。
ヴァルドが海水を吐き出す。
『塩辛い』
「海ですから」
『海王は毎日これを飲んでおるのか』
「飲んでません」
たぶん。
マレナが折れた軸を抱えて、塔から降りてくる。
「右は使える。左は今夜中に直す」
「間に合いますか」
「一人なら無理」
彼女は、潮車を回した人々を見た。
「これだけいれば、朝までには」
折れた軸の黒い粉を、小瓶の布へ包む。
海王の歯だけを壊した者は、潮を港へ預ける逃げ道まで潰していた。
治療が失敗することを、待っている者がいる。




